2020年7月5日日曜日

『万引き家族』にみる家族のことば―呼称と終助詞

【こんな映画】


監督:是枝裕和  2018年 120分

出演:樹木希林(初枝) リリー・フランキー(治)   安藤サクラ(信代) 松岡茉優(亜紀) 城桧吏(祥太) 佐々木みゆ(ゆり/りん/じゅり)
 

下町のビルの谷間に取り残されたように立つ古い小さな家に住む家族5人。もともとこの家の持ち主で、亡くなった夫(実は元夫)の遺族年金で暮らす「祖母」初枝、「息子夫婦」の治と信代。治は日雇いの現場作業員をしていますが、働くことがキライで、なにかといえばサボりたがる…。そして息子を引き連れ、万引きや車上荒らしなどをしながら暮らしをたてています。いっぽう信代はベテランパートのクリーニング工場従業員ですが、時給が高いということを理由に経営苦の工場主に解雇を言い渡されてしまいます。ふたりの「息子」祥太は小学生の年齢ですが「学校に行くのは家で勉強ができない子だけだ」と言い聞かされ、そう思い込んでいます。祥太は実は10年前、治と信代が車の中に寝かされていた乳児を誘拐してきた子です。「妻の妹」として同居し風俗店でアルバイトをする亜紀は、祖母初枝になついていますが、彼女も実は生い立ちに秘密を抱えていました。そして治と信代も実は初枝と実の息子夫婦というわけではなく、秘密を持っています。
ある冬の夜、万引き帰りの治と祥太が、近くのアパートの外廊下で一人寒さに震える少女(5歳)を連れ帰ります。空腹の少女に買ってきたコロッケを食べさせ、夜半に眠った少女をアパートに連れて行った治と信代は、部屋の中では激しく争う男女の声を聞き、結局少女を返すことができずに家に連れ戻ってしまいます。こうして6人に増えた家族の物語が『万引き家族』です。 
それぞれが「秘密」を抱える血のつながらない「家族」ですが、互いが互いのありのままを認め合うような関係は、普通の家族以上に強い絆と親しさをこの家族にもたらしていました。しかし、祖母初枝が亡くなり、息子祥太が成長していくとともに、この家族にもほころびが生まれ、やがてある事件をきっかけに一家は破滅・解体へと進んでいきます。

【「ことば」に関する着眼点】

現代の家族間では一般的には子から親へ、弟妹から兄姉への敬語や丁寧体の使用は、義理の家族(嫁や娘婿から舅・姑など)を除いては、ほとんどないといっていいかもしれません。『万引き家族』は一種の疑似家族ですが、この「家族」でも70代の祖母から小さな子どもまで、相手に向かって丁寧体を使うことは皆無で、みな「対等に」フランクな普通体基調で話しています。
ただ、その普通体も、だれもが一様な語り口というわけではなく、特に治のことばは一家に唯一の成人男性として他の登場人物とは少し違った特徴を持っているようです。
また、実際には家族でない人々が家族としてふるまおうとしているゆえか、この映画の人物互いに対する、また自分をあらわす呼び方には特徴的な面白さがあるように思います。そのあたりを観察していきましょう。


治のことばー「家族」との会話

まずは、一家の「主人」治の話し方をみてみましょう。

1.治:ばばあの年金、月に7万ぐらいあんだろ?
  信代:6万。でも、いいよね。旦那のおかげで死ぬまでもらえんだから。
  治:はっ、偉そうになあ。てめえでかせいでるみたいなこと言いやがってよ。
  なあ?面倒見てやってんのこっちじゃねえかよ。おれよ、ずーっと…

   (玄関開閉の音がして初枝が帰ってくる)
 初枝:うー、寒い、寒い。
 信代:お帰りー。
 初枝:ただいま。
 治:あぁ、お帰り、おばあちゃん
 初枝:お稲荷さんの池の氷、珍しく張ってたよ。
 治:おー、そうか、ほら、気をつけねえと、ほら、滑って腰とか打ったら大変だか
  らよ。

治と信代の夫婦と、家主であり夫婦の「母・姑」的立場として一家にいる初枝に対する見方や態度がよく表れている場面。初枝がいないところでは特に治は「ばばあ」「言いやがって」のように、いわば罵るのですが、初枝が帰ってくると一転して態度を変え、「おばあちゃん」親しげにと呼びかけ「気をつけねえと、腰を打ったら大変だから」と気遣いを示しています。

この場面では、治はもちろん、信代も「お帰りなさい」ではなく「お帰りー」ですし、信代、初枝とも互いに気楽な調子の普通体で話しています。ただここでは、というか映画全体もそうですが、治だけが「こっちじゃねえかよ」「気をつけねえと」のように「ない」が「ねえ」と長音化をする、くだけた口調です。これは初枝を気遣う場面でも出てくるので、相手を待遇して乱暴に言ったり罵ったりしているわけではなく、治本来の性格とか社会的位置づけによるものだとも考えられます。
『何者』でもこのような言い方は、若い男性だけにみられ、登場人物の一人、光太郎が女性の友人に対しても使うほかは男性から女性には現れず、また、光太郎も含め、男性からでも先輩に対しては使うことはありませんでした。治の場合は、年長の初枝に対する場合を含め、家族のだれに対してもこのような言い方をよくしています。

次は治と息子・翔太が、寒空の夜、ひとり戸外にいた少女を拾ってきた場面です。


2.信代:もう少しさ、カネのニオイするもん拾ってきなよぉ。
  治:父ちゃん、あんま、鼻よくねえからな。な?へへへツ(笑)

  信代:(少女に)名前はー?
  少女:ゆり。
  信代:ん?なに?
  治:ん?
  祥太:「ゆり」だって。
  初枝:「ゆり」ってどんな字書くの?
  治:「ゆり」はこうだよ。(空中にひらがなを書く)
  信代:いくつ? (指で示すゆり)保育園か。
  初枝:5歳にしちゃ華奢だね。

  信代:ねえ、それ食べさせたら返してきなよ。
  治:でもよ、今日、外寒いんだよな。あしたでいいんじゃねえのか?
  信代:ダメだよ。うち養護施設じゃないんだから。
  治:でもよ、ほらここにいんじゃねえかよ。(箸で初枝を指す)ほら、タイガーマ
   スクがよ、ほいほい。
      初枝:箸で人を指すな。

やさしいけれど、ちょっと軽はずみ?というか行き当たりばったり、その場その場で動く治は、少女がかわいそうだからというより、寒空の下、返しに行くのが面倒ということから少女を家に置いておこうとしますが、信代は現実的・実務的なものの見方をし、少女に対するにも名前や年齢を明らかにしようとしますし、実際にこの家に少女を置いておくことはできないという判断をします。
初枝は、少女の名前「ゆり」がどんな漢字なのかを気にしますが、これは彼女の中にあるある種の教養(「華奢だね」などと少女を評するところにもそれは現れている?)と、実際的な問題よりそういうことを気にする非現実性を表しているようでもあります。そういう性格だからこそ、小さいながら家をもって年金暮らしをしている老人がそれだけに納まらず、他人を息子・娘や孫のように受け入れてあたかもおままごとのように家庭を作ってしまうという、この物語も成立するのでしょう。彼女を「タイガーマスク」と評する治のことばもまさにそういう初代の性格をを示しています。なお、治の「無教養」な非現実性は、残念ながら漢字を知りたい初枝を理解できず、ひらがなの「ゆり」を示すという、すっとぼけた行動で答えてしまいます。

もう一つ、面白いのは治がここで自称する「父ちゃん」でしょうか。
映画の中で、治は祥太に万引きを仕込むだけでなく、近くに止まっている廃車の中で不貞腐れる祥太を迎えに行ったり、雨に濡れて帰った子どもたちを拭いてやったり、また、一緒に手品をして遊んだり、海に連れて行って海水浴をさせたりと大変に子煩悩な姿を見せます。

3.祥太:(ゆりを指し)こいつ、邪魔。
  治:そんなこと言うなよ、お前、お前の妹だぞ。
  祥太:妹じゃないよ。
  治:妹だよ。ゆりはお前の妹だって。(走り去る祥太)
  治:(ゆりに)妹だよな。なっ? 気にすんな。ほら、おい、気にすんなって。反抗
   期だから、あいつ。

突然この家の一員となったゆりを「妹ではない」と疎んずる祥太に対して、ゆりはあくまでも祥太の妹だと言い張る治は、この疑似家族をもっとも「家族」として夢想しているようです。ですから彼は子どもたちや、子ども以外の相手ー独り言などでも「父ちゃん」と自称しますし、子どもたちにもそう呼んでほしいと強く願います。この後、一人すねる祥太をなだめる治が「息子」と話す場面…。

4.治:嫌いか?ゆりのこと。(首を振る祥太)じゃあ、なんで?
  祥太:男二人の方が楽しい。
  治:まあ、そりゃそうだけどよ、ゆりもな、なにか役にたったほうが、あの家に
   いやすいだろ。な? わかった?
  祥太:わかった。
  治:へへへ(笑)。ゆりはお前の、ん?
  祥太:妹。
  治:そうだよ。そうだ、そうだ、そうだ。じゃあな、おれはお前のと、と、と、
  祥太:いい。
  治:言えよ。ほら、ほら1回呼んでみて。
  祥太:いつかね。
  治:だぁ、チッ(舌打ち)。ま、いっか。おい、じゃあ、いつかな。
 
「役にたつ」ことでつながっている人間関係だと承知しつつも、それを越えて家族の関係を求める治は、あくまでも祥太の「父」でありたいのです。

5.祥太:うん。 ねえ?「スイミー」って知ってる?
  治:あ? 父ちゃん、ほら、英語わかんねえからさ。
  祥太:英語じゃないよ。国語の教科書に載ってた。
  治:ああ、ハハハ、父ちゃん国語のがもっとわかんねえから。
  祥太:「スイミー」ってね、小さな魚たちが、大きなマグロをやっつける話なんだ
   けど、
  治:ああ。
  祥太:なんでやっつけるか知ってる?
  治:なんで? そりゃ、あれだろ、マグロがおいしいからだろ、なあ?
  祥太:違うと思う。

この場面でも治は「息子」に対して「父ちゃん」と自称します。学校にも行かず家で自分で本を読んだりしている祥太ですが、実はかなり知的に優れた子どもで、すでに知識などの面で治を凌駕し始めている…(これは治の無教養さを示すのでもありますが)そんな様子がよくあらわれた場面です。ここでは、祥太は治の意見を否定するのに「違うと思う」と、まだまだ遠慮がちですが、やがて祥太の自立意識は治の行為への疑問・否定となりこの疑似家族を崩壊に導く引き金になっていくのです。
なお、治は最後のほうで「自分は『父ちゃん』から『オジサン』にもどる」と祥太に告げます。こうして「家族」は完全に解体され、「親子」はそれぞれに自立への道に旅立つことになります。


祥太の自立と自称

まだ記憶もない幼いころに、パチンコ屋の駐車場の車の中から誘拐されたー多分治と信代の意識では、車内に置き去りにされ熱中症の危機に瀕している赤ん坊を助けたということになるー祥太は、あたかもそれを象徴するかのように家の中では押し入れにこもり、近くの空き地に放置された廃車の中で一人遊びをする子どもです。彼は「父」治に仕込まれ、今は一人前に役割分担して、治とともに組んで万引きをして暮らしています。
ゆりが連れてこられた翌朝、おねしょをして衣類を濡らしたゆりに、信代は祥太の小さくくなったシャツを着せます。それを見て不服に思う祥太。ここでの自称詞はふだんの治の自称(「父ちゃん」と称するとき以外)と同じ「おれ」です。

6.祥太:ねえ、それ、おれの?
  信代:もういいじゃん。着られないんだから。

やがて、ゆりを「妹」として受け入れ、一緒に行動するようになる祥太。相手を「お前」と呼びかけ、「教えてやる」「好きなやつ」「忘れちゃいな」というようなくだけた言い方も、ちょっと「父」の言い方に似ているとも言えそうです。祥太はゆりに万引きを教え込もうともします。

7.祥太:そのうち〈万引きを〉教えてやるから。(ゆり、うなずく)
   これ、お前が好きなやつだろ。おばあちゃんやさしかった?(ゆり、うなず
   く)一緒に住んでたの?
  ゆり:今、天国にいる。
  祥太:じゃあ、もう忘れちゃいな。  
 
次は、もっと後、じゅり(ゆり)の「行方不明」がTVで報道され、それを見た同僚に気づかれて、「黙っている」ことを条件に、信代はその同僚とどちらか一人はクビと言われたリストラにあって職を失います。しかし、他に知られないために「りん」と新たに名付けたゆりを含めた「家族」6人がもっとも結束して幸せな時を過ごしていた時で、治は子どもたちに手品をしてみせ、家族そろって家から花火大会の音を聞き、りんに水着を買って一家で海水浴にも行くという「団らん」を過ごします。
その手品シーン。治の手品のネタを信代がばらし、治はもっとすごいのを見せると意気込みますが…

8.祥太:すごいと思ったのに…
  治:(信代に)なにやってんだよ、お前。(信代笑う)よし!
  祥太:祥太でもできんじゃん(つぶやくように)。
  治:もっと、すげえの見してやるから。今度はもうびっくりするぞ、お前。

ここで、祥太は自分を「おれ」でなく、「祥太」と名前で呼んでいます。
この一家では、これより前にゆり(本名じゅり)が「りん」と名前を変え、また「女房の妹」として同居する亜紀も勤める風俗店の源氏名として実妹の名「さやか」を名乗るというエピソードが描かれていて、いわば二つ以上の名前によるアイデンティティの揺らぎとか、二重性がすでに提示されているわけですが、その中であえて自分を「祥太」と呼ぶことにより少年が一種の客観性をもって自分を見始めた姿が現れているようです。とはいえ、実はこの「祥太」という名、治の本名「勝太」からつけたものということが後で示され、そうなると、祥太自身が名前を名乗ることによって得たアイデンティティというのも実は不確かなものであったのかもしれない―非常につらい場面でもあります。

そして、家族が解体後、児童養護施設に入った祥太は久しぶりに治とともに信代と面会します。この場面で祥太は「ごめんなさい、ぼくが捕まったから」と信代にあやまります。そのあと降り始めた雪の中、治の一人住まいを訪れ、一緒に夕食のカップ麺を食べたり、積もった雪で雪だるまを作って遊んだりの、いわば懐かしい時間を取り戻したようなひと時の後、治の家に泊ります。そして、「ねえ、ぼくを置いて逃げようとしたの?」「ぼく、わざと捕まったんだ」と、何度も「ぼく」を繰り返しながら問いかけ、話し、翌朝治の前から去っていくのです。「ぼく」と自称する祥太はすでのこの疑似家族の一員という立場を捨て、新たな自分を獲得する道を踏み出している…、そのことを感じた治は、「父ちゃんからオジサンに戻る」と言い、祥太は「うん」とだけ答えます。

この映画は、祥太という少年の成長と自立ーその中で「親」の生き方への疑問や批判も生まれてくるーの物語として見ることもできます。そして「おれ」「祥太」「ぼく」という自称詞の変化はまさに、祥太の親からの脱皮、自立を象徴しているとも言えそうです。



初枝と「家族」の距離ー呼び方・呼ばれ方にみる

あくまでもこの一家を家族として、自分を「父ちゃん」たらしめたいと考える治に対して、信代は稼ぐことにより、初枝は家と年金を持つことにより、ある意味より現実的にこの一家を支えているのですが、二人とも治のような幻想をこの家庭に抱いてはいないようです。

初枝は家族には、面と向かっては「おばあちゃん」「ばあちゃん」などと呼ばれているのですが、初枝自身は家族をどのように呼んでいるでしょうか。

9.初枝:はい、にいさんにいさん、ほら、これはい、はい。

仕事に出ようとする治に、魔法瓶に入れたお茶を渡すときのことば。

10.亜紀:(縫物をする初枝に)なに? だれの?
  初枝:あの女の子、ちっちゃい子の
  亜紀:ふーん。

初枝にとって亜紀はことに親密な関係で、二人だけで会話する場面も何度もあり、そこでは、「あんた、鼻高くていいわねえ」などと亜紀をほめたりしていますが、なぜか名前での亜紀への呼びかけはでてきません。「あんた」は後の12の会話での信代への呼びかけもありますが、治や祥太を「あんた」と呼ぶことはありません。ゆり/りんのことは、好物の麩を食べさせたり、おねしょに効く塩を与えたりと結構面倒をよく見るのですが、直接の名前で呼ぶ場面はなく、この10では、ゆり/りんのいないところでの他称とはいえ、なんだかずいぶん遠い存在のような呼び方です。

11.信代:(洋品店で)もう夏もんだよ。りんは海に行ったことある?
  りん:(黙って首を振る)
  初枝:へえ。あんちゃんは?
  祥太:え? あるよ。多分。
  初枝:へっ。多分か。

一般的に言えば、親・祖父母の立場で、子や孫をを「にいさん」「あんちゃん」などと呼ぶとすれば、より年少の子や孫の立場に仮託する場合です。11に関していえば初枝はりんの立場に仮託してそこから祥太を「あんちゃん」と呼んだとも考えられますが、9の「にいさん」や後にあげる13の「お姉さん」からは、初枝が治や信代を息子や娘(とすれば、名前を呼ぶことになる)や孫の父母(「お父さん」「お母さん」のような呼び方)として対するというよりは、むしろ他人を親族呼称で呼ぶ日本語の習慣を援用していると考えた方がよさそうです。つまり、一緒に暮らし親しくしながらも、初枝は治・信代、子どもたちを決して息子や娘と同等とは考えていないということでしょうか。
次にあげる12,13は初枝と信代が、この家族のつながりについて語る会話です。
ちなみに12で、祥太も治や信代を「お父さん」「お母さん」扱いはしていないということがわかります。


12.祥太:おじさんに助けてもらったんだよな。
  りん:うん。
  祥太:おばさんとおばあちゃん、好きか?(うなずくりん)じゃあ、我慢できる
    よな。
  りん:できる。
    (二人の話を聞いている初枝と信代)
  初枝:ねえ、戻るって言うと思ったけどね。
  信代:うん。選ばれたのかなあ。わたしたち。
  初枝:親は選べないからね、普通は。
  信代:でもさ、こうやって自分で選んだ方が強いんじゃない?
  初枝:なにが?
  信代:なにがって、絆よ、きずな。
  初枝:あたしは、あんたを選んだんだよぉ。(信代笑う)



13.信代:(仲良く遊ぶ家族をみながら)ふふ、ねえ、わたしが言ったとおりだったで
   しょ。
  初枝:そんなの長続きしないよ。
  信代:そうだけどさ、でも、ほら、血がつながってないほうがいいってこともある
   じゃない?
  初枝:ま、まあ、余計な期待しないだけね。うん、そうそう。
    おねえさんよく見るときれいだね。
  信代:なに言ってんの。
  初枝:顔。
  信代:えーっ(照れる)。

先にも述べた通り初枝は家族からはいつも「おばあちゃん」「ばあちゃん」(治だけこう呼ぶことがあります。面と向かってでなければ治は「ばばあ」「ばあさん」などとも初枝を指して言っていて、他の人物よりは自在な感じですが、これは同時に治と初枝の微妙な距離感を示すものかもしれません)と呼ばれていますが、1度だけ次のように呼ばれて、とてもうれしそうに応ずる場面があります。

14.(縁側で花火の音を聞きながらビールを飲む初枝に)
  治:うー、くそばばあ、風邪ひくぞ。
  初枝:へへへへ(笑)。
  治:ああ、花火かい?

実の親子ではないからこそ示せる「親愛表現」としての罵倒語「くそばばあ」ですが、その裏に相手の思いやりを感じ取って初枝も笑っています。


信代の「思想」と生き方

子どもたちにはにあくまでも「親子」であることを求め、親格の初枝には他人とも実子ともつかないような距離を自在にとっているような治、「おばあちゃん」として家族の中にありながら、意識としては一歩冷静な距離をおいているような初枝と比べて信代のこの家族における位置はどうでしょうか。
初枝の死後、彼女の年金をATMで下ろした信代が祥太と街を歩くシーンがあります。

15.祥太:いくら?
  信代:11万6千円。
  祥太:だれのお金?
  信代:ばあちゃんのだよ。
  祥太:じゃあ、悪くないね。
  信代:悪くなーいよ。
  祥太:じゃあ、万引きは?
  信代:父ちゃんは、なんだって?
  祥太:お店に置いてあるものは、まだ、だれのものでもないって。
  信代:まあ、店がつぶれなきゃいいんじゃない?
  (ふたり、ラムネを飲みながら歩く)
  肉屋の店員:お母さん、どう?コロッケ、晩ごはんに。
  信代:フフフフ(笑う)。
  祥太:うれしい? お母さんって呼ばれて。
  信代:えー、だれに?
  祥太:うん…、りんとか。
  信代:呼ばれてみないと、わかんないかな。
      祥太:ふーん。
  信代:なーんで、そんなこと聞くんだよ。
  祥太:え? 呼べっていうからさ、父ちゃんって。
  信代:呼べないんだ。
  祥太:うん。まだね。
      信代:んー。もう、ほんと、たいしたことじゃないから。無理しなくていいよ。

肉屋の店員は、息子(らしき少年)と一緒に歩く信代に「お母さん」と声を掛けます。それを聞いた祥太は「お母さん」と呼ばれるとうれしいのか?と信代に問いかけます。
これは「息子」であることを治から求められて、それを重荷に思い始めている祥太から信代への問いかけです。この問いかけは同時に「万引き」を生業としたり、亡くなった初枝(他人)の年金を勝手に下ろして使うことへの疑問でもあるわけですが、これに対する信代の返答はある意味で非常にご都合主義的でもあり、現実容認的とも言えるものです。

つまり、自分は決して「母親」であろうとしてはいない。そんなことはいわばどうでもいい。しかし、「父ちゃん」と呼ばせ、万引きを教える治の姿勢を容認し、初枝は「ばあちゃん」で他人ではないからその年金を拝借するのは悪ではないということです。
これは、自分は万引きせず自力で仕事をして稼ぐ、しかし万引きを生業とする治の現実を容認するという姿勢でもあります。また、母親ではないが、自分のもとにやってきた子どもを自分の子のように育てるという「受け入れる」姿勢にもつながっているようです。

信代の容認や受容は、あくまでもそこに集まった人々(疑似家族)のためであり、彼女は自分個人だけの幸せは求めていないようです(彼女自身の幸せは、クビになった腹いせ?に、化粧品を買ったり1980円のレースのスリップを買ったりするぐらい?)。そしてそのような「幸せ」を求める思想の前では信代は法律も常識も倫理までも超越してしまうということでしょう。初枝が亡くなった時は、ただ嘆く亜紀や、おろおろして救急車を呼ぼうとする治を制して、初枝を床下に埋葬するという決断をしたのも彼女でした。これは彼女の中では決して犯罪を隠すということではなく、亡くなった初枝を孤独にせず、またいつ崩壊するかわからない疑似家族を守るための判断だったのです。そして彼女はその責任を一人で負って、刑務所にも一人でいくという決断をするのです。

初枝のもう一つの「家族」-丁寧体の使用

映画の中で初枝を、地域の民生委員が訪ねてくるシーンがあります。この場面で家にいた祥太とゆりに初枝は急いで隠れるように言います。つまり初枝は表向きはこの家で単身でんでいることになっているらしい。民生委員の米山は近くの老人が一人暮らしの家からアパートに移ったことを話し「初枝さんもさ、よーく息子さんと相談して、ね?あ、博多でしたっけ?」と言います。初枝には、博多に行き来の途絶えた息子がいるようなのです。
いっぽう、初枝にはもう一つ、毎月のように訪ねる家族がいます。それは元夫が、彼女と別れて作った家庭で、元夫の息子譲、その妻葉子、娘さやかがいます。実はこの家は初枝と一緒に住む亜紀の実家でもあります。この一家も初枝とは血縁関係にはありませんが、実は初枝はこの一家に「たかり」に行きます。

16.さやか:いってきます(出かけていく)。
   葉子:いってらっしゃい。
   初枝:ああ、もう大きくなられて
   譲:ええ、もう高2で。
   初枝:ああ。上の娘さんは?
   譲:あっ、亜紀ですか? ええ。
   初枝:外国でしょ?
   譲:はい。なんか、楽しいみたいです。オーストラリア、なあ?(と、葉子に)。
   葉子:ええ。夏休みも戻ってこなくて。パパはちょっと寂しがってますけど。
   初枝:そう。それはそう、何よりで。ふーん(笑)。
        (帰りがけ)
   譲:これ。少ないですけど(封筒を差し出す)。
   初枝:あ、そうですか。まあ、じゃ遠慮なく。
   譲:母のことは本当に申し訳なく思っています。
   初枝:いやぁ、あなたに罪はないですよ。
   (帰り道 封をあけて札を数える)
   初枝:あ、なんだ。また3万円だ。 

亜紀が自分と一緒にいることはおくびにも出さず、亜紀の両親の嘘にもにこやかにうなずき、しっかり「手当」だけはもらって帰る初枝の「タヌキぶり」がコワい場面です。
ここでの初枝は前半、娘についての話では、さやかへの敬語「大きくなられて」を使ったかと思えば、前半はことば少なめの言い切り、後半お金をもらう場面では丁寧体になります。これは、一つには相手の夫婦の丁寧体(迷惑な来訪者でしょうが、父が捨てた妻というのが負い目になっているお人よしの息子としてはむげには扱えず、相手は年長者でもありということ)に合わせて距離をとっているのでもあるし、また、初枝なりの、話題によって親疎の表現に緩急をつけるということでもあるのでしょう。
もっとも初枝の死後、封筒に入れたままの3万円がたくさん見つかり治と信代が驚喜する場面もあって、この3万円、実際に必要で使うためにもらいに行ったということでもなさそうです。亜紀に口を滑らせて「慰謝料」という場面もあり、初枝の中の表には出さない元夫への恨みや怒りは相当なものかもしれません。そうなるとここでの丁寧体はお金をもらうというへりくだった関係からというより、そこに相手への恨みや皮肉を込めて冷たく距離をとっていると見るべきなのかもしれません。

初枝と住む5人の「家族」のうち、亜紀はなんといっても初枝にとっては特別な存在のようで、亜紀も初枝になついています。実の息子一家とは音信不通的な距離があり、血縁のまったくない疑似息子一家と暮らすことを選んだ初枝にとって、亜紀は血縁とも赤の他人とも異なる微妙な位置にあって、それが二人をより親密に繋いでいるといえるのかもしれません。
  
映画の中の普通体+文末形式・終助詞

日本語の終助詞は話者の意識や態度を表したり、また話者自身を表すこともあります。たとえば、15「呼ばれてみないと、わかんないかな」の「かな」ははっきりと断定できないという意識、もし「わかんないかしら」と言えば、これは同じ意味の女性的な表現ということになります(ただし『万引き家族』には「かしら」は1例も現れません)。

信代の文末形式で目立つのは15「ばあちゃんのだよ」「なんでそんなこと聞くんだよ」「悪くないよ」2「ダメだよ」「金のニオイのするもの、拾ってきなよ」「返してきなよ」のように「だよ」や動詞・形容詞に直接つく「よ」、「なさい」の省略形「な」に「よ」がついた「~なよ」などです。ゆりを返しに行ったとき、家に入れず「そっと置いて、ピンポンして逃げるか」と言う治に「サンタクロースかよ」と言う場面もあります。
終助詞「よ」は「相手が知らないことに注意を向けさせる働き」(益岡・田窪2011)があるといわれ、相手に対して自分がそのことを知っているということの表明をしたり、告知や注意や警告など、相手に対して積極的にイニシアチブをとるような会話の文脈に現れるようです。この映画の中でも家族や同僚に対して自分の態度や意思を表明するような態度が目立つ信代らしい終助詞といえるでしょう。

旧来の日本語では「だよ」「動詞・形容詞+よ」は男性専用形式とされ、これに対する女性専用形式は「だわ(よ)」「動詞・形容詞+わ(よ)」とされました。信代の文末形式はほとんどの場合「だよ」系ですが、ときどき「わ」を含め女性専用形式も現れます。

17.  信代:なんで、あたしなのよ
   同僚・根岸:だから頼んでんじゃん。
   信代:そんなぁ、だって苦しいのはお互い様でしょ。あんただけじゃないわよ

18.  治:なんだよ、お前。その満足いってねえ、みたいな顔してよぉ。え?
       信代:たいして汗もかいてないわよ
       治:ウソつけよ。お前。え?
       信代:もう一回いくか?
       治:いや、お前、いくつだと思ってんだよ。もう少しよ、これ、余韻に浸らしてく
   れ、な?
       信代:余韻の方がよっぽど長いわ⤵

19.信代:ああ、まあ、よくある話だわな

17はどちらか一人のリストラを言い渡され、同僚といわば争う深刻な場面で、信代は「~なのよ」「~わよ」と女性専用形式でたたみかけます。これを映画の場面で見ると、「のよ」「わよ」には女性専用形式が持つというやわらかい印象は全くなくて、むしろ相手に押し付けるような強いイメージです。「なんであたしなんだよ」「あんただけじゃないよ」と言えばむしろ軽く言い捨てている感じ、もしくは乱暴で仕事へのやる気が少ない感じになりそうです。

18は珍しく?昼日中のセックス後の信代と治で、この「わよ」も信代が「満足いってない」ことを治に主張している文脈で現れ、そのすぐ後には挑発的な「もう一回いくか?」もあって、決して柔らかくおとなしく男性に甘えるというような雰囲気で使われた女性形式とは言えません。さらにこの後「よっぽど長いわ⤵」は下降調のイントネーションで発話されています。これは旧来型の上昇調の女性専用形式「わ」と違い、次にあげる20の治のことばにもあるように、現代の会話の中では男性にもよく使われる―『何者』の若者たちの会話ではむしろ男性がよく使っていた(小林2019)ー形式です。19の「だわな」も同じように下降調で、「な」も合わせ旧来では「オジサン」口調と言ってもいいような感じです。
これらから、女性専用形式と言われるものが使われても、いわゆる女性らしさ―柔らかさとかやさしさとかが表明されているのではないということがわかります。

初枝も「だよ」は多いですが、2「5歳にしちゃ華奢だね」のように「だね」で相手の同意を得ようとしたり、「箸で人を指すな」のような終助詞なしのいわばナマの禁止形も使っています。亜紀もほぼ同じように言い切りは「だよ」や「じゃん」など。15「誰に似たかな?」17「おばあちゃんにはなんでもわかっちゃうね」と初枝に話すときにはとてもやさし気な口調になります。

20.治:(万引きしてきた釣り竿を見ながら)いいもんは違うわ⤵。
  信代:ん。それでいくらくらいになんの?
  治:ん、4,5万にはなるんじゃない?へへ(笑)。
  信代:え…(驚く)。
  治:これで、おれ、今月働かなくて大丈夫かなー。
  信代:ねえ、亜紀もさ、ちょっとは入れたらいいじゃん。稼いでるんでしょ。
  初枝:いいの、いいの。この子はそういう約束だからいいのよ。
  信代:そうやっておばあちゃんが甘やかすから、つけあがんのよ。
  亜紀:はあ?つけあがってんの、どっちだよ。おばあちゃん食いものにしてんじ
    ゃん。
  信代:食いもんって言い方ないんじゃない?
  初枝:食えるもんなら食ってみな。
  治:へへっ、食えない、食えないよ。

途中の信代と初枝の「のよ」以外は、ほぼ男女差のない文末形式と言っていいでしょう。
信代に「甘やかされてつけあがっている」と言われ亜紀が珍しく気色ばんで強い口調で反論をし、それに対して信代もカチンときて険悪な雰囲気になります。そこで初枝の、ことばとしては乱暴な「食えるもんなら食ってみな」(「食べてごらんなさい」とかでなく)と治のやさしげなというより情けない感じさえする「食えないよ」(「食えないぞ」とか「食えるわけないだろう」などでなく)が険悪さを鎮めて場をおさめる―こういうところは是枝映画に共通した会話の上手さだと思います。

20のような場面では治と他の女性たちとの文末形式・終助詞にほとんどちがいというようなものは見られませんが、先に「ない」の長音化「ねえ」の多用が目立つと言ったように、文末形式でも、他の人物にみられない治独特の言い方が現われます。

21.治:ようよう、さっきの、「死に水保険」っつのどう?(笑)
  信代:うーん。(ゆりを見て)あんな目にあってんのにね、親に。
  治:ん? ああ、ゆりか。、人の心配してる場合じゃねえんだよな
  信代:産まなきゃよかったって言われて育つと、ああはならないよね。
  治:普通は

22.信代:フフ、いやクビになっちゃって
  治:じゃ、まあ、また一緒に店でもやるか、西日暮里あたりで
  信代:亜紀でも雇えばどうにかなるかねえ。
  治:いや、お前もまだいけんだろ、お前、そうやって、ほら。昔みたいに、化粧
   してれば。
  信代:んふ(笑)。

23.(刑務所での面会)
  治:悪いな。おれの分まで
  信代:あんた、前あんだから、んー、5年じゃきかないよ。
  治:でも、お前…。

  信代:どう?施設は。ちゃんと学校行ってんの?
  祥太:うん。国語のテストは8位だった。
  治:うぉ!(信代笑う)
    頭いいんだよ、祥太は

終助詞「さ」「ね」などには文中の切れ目に入って、聞き手の注意を促す「間投用法」があります(益岡・田窪2011)。21の信代の「言われて育つとさ、」の「さ」がこれにあたります(22「クビになっちゃってさ」は普通の文末用法)。
治のことばに特徴的なのは21「さっきのよ」「普通はな」22「西日暮里あたりでよ」
「昔みたいによ」23「おれの分までよ」「でもよ」「祥太はな」のように、「よ」や「な」が間投的に使われていることです。「普通はな」は文末ですが「普通はああはならない」という意の後半が省略されたものと見ることができます。23の「おれの分までよ」「祥太はな」はどちらも倒置文なので、やはりこれは間投用法とみるべきでしょう。
2で繰り返される「でもよ」、4「そりゃそうだけどよ」18「もう少しよ」などもそうでした。話の聞き手は信代である場合が多いですが、祥太にも亜紀に対しても使われた例があり、特に相手は選ばないようです。信代や亜紀、初枝がこのような「よ」「な」を使うことはありません。
益岡・田窪2011によれば「丁寧な文体では「さ」は使えず、丁寧体では「ね」の代わりに「ですね」も用いられる」というのですが、「よ」や「な」は「さ」「ね」よりさらにインフォーマルで、アウトサイダー的な男性(まさに治のような)の用いる形式という感じもあります。

ほかに「~だろ」(信代の場合「でしょ」になる)「~だよな」(信代・亜紀は「~だよね」)、「な(っ)(あ)」「ようよう」という呼びかけなども、この映画では治以外の女性登場人物には現れない、男性専用形式ということになります。そうそう、呼びかけ(対称詞)についても23で示されるように治から信代へは「お前」、信代からは「あんた」と一貫して非対称で固定した対称詞が使われています。治はやはり、女性たちよりも丁寧度の低い、よりインフォーマル度の高い言い方ーつまりどちらかというと相手を立てるのでなく相手の上に立つのでもあるようなーをしています。
なお、このような言い方は家庭内で相手を選んではいませんが、祥太や、もっと幼いゆりに対してはあまり出てこないようです。これは一種のファーザーズトークとでもいうべきもので、親(大人)であることを意識してより規範的な言い方に近くなるということとも考えられます。

さて、まとめてみると…

フランクで対等に話しているかのような家庭内の会話においても、男女のことばは全く同じというわけではなく、微妙な男女差があるし、相手が妻(夫)か、それ以外の大人か、あるいは子どもかというようなことによっても微妙に差がつけられているようです。
特にこの映画では家族唯一の成人男性である治のことばにはそれが特徴的にあらわれているようです。
また、この家族が疑似家族ということもあり、それぞれの意識する人間関係が相手や自分の呼び方の投影されています。
日本語では、家族内の親族呼称としてはもっとも年下のものの立場から「お父さん」「お母さん」「おばあちゃん」のように自称・対称するといわれますが、ほんとうのところ、子どもや孫から対称として呼ばれることはまだしも。特に大きくなった子供に対して自分を「パパ」「ママ」「お父さん」「お母さん」とは呼ばない(呼びたくない)という人も案外多いような気がします。この映画の場合「疑似家族」なので親(的立場)が子どもに対して自分をどう規定するか(自称し、呼ばれることを望むか)という問題がより典型的にあらわれています。
また、親族以外に親族呼称を使って呼びかける―「おにいさん」「おねえさん」「お父さん」「お母さん」などーさすがに最近は他人に向かって「おじいちゃん」「おばあちゃん」などと呼びかけることの失礼さは認識されてきているようですがーが映画の中でうまく使われていて、この家族の人間関係の微妙さー他人だけれど親族以上に深くつながっているのかもしれないーを表しているようです。

【参考資料】

 益岡隆志・田窪行則(2011) 基礎日本語文法―改訂版― くろしお出版
 小林美恵子(2019)「映画『何者』にみる若者ことばの「中性化」」『ことば』40号
          pp.106-123    現代日本語研究会







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