2019年6月11日火曜日

『家族はつらいよ』にみる家族のことばー敬語と丁寧体

【こんな映画】

監督:山田洋次 2016    108



出演:橋爪功(平田周造)妻・富子(吉行和子) 西村雅彦(長男・幸之助)夏川結衣(妻・史枝)中村鷹之資(息子・謙一)丸山歩夢(息子・信介) 中嶋朋子(長女・金井成子) 林家正蔵(夫・泰蔵)妻夫木聡(次男・庄太)蒼井優(庄太の恋人・間宮憲子)



結婚50年を迎えようとする平田家の主人・周造
73歳)は元会社員。定年退職後の今は悠々自適の生活
をしています。専業主婦だった妻もカルチャーセンター
の創作教室に通い人生を楽しんでいるようす。ふたりは
長男一家(同じく会社員の夫・専業主婦の妻・中学生、
小学生のふたりの息子)と三世代同居をしています。娘
は税理士となり結婚して別居。同居中の下の息子はピア
ノ調律師で、まもなく結婚しそうというところです。

そんな穏やかな平田周造の身辺におこる大問題。妻から「誕生祝い」に離婚届への捺印を求められたのです。
周造は狼狽し、子供たちも驚き慌て、なんとか解決策を
求めようと「家族会議」を決行しますが・・・・



【「ことば」に関する着眼点】

三世代同居、専業主婦2人という家族は現代の都会では、珍しいほうかもしれません。少し古風な暮らしぶりというべきなのかもしれず、それを反映してか、または御年90?であらせられる作者山田洋次監督の意識を反映してか、現代作品であり「家族の映画」であるにもかかわらず、この映画には丁寧体や敬語が比較的多く出現します。

家族間の敬語については、私の受講者である若い学生たちにとっては、聞いたこともないもののようですし、実際に、私たちが自然談話を調査した『談話資料 日常生活のことば』のデータでも家族の間で敬語は、決まった形の挨拶語「いただきます」「いらっしゃいませ」や、他者のことばの引用などにみられるほかはほとんど現れません。

この映画では、特に家庭の中で使われる敬語や丁寧体の使われ方を観察しながら、親しい者どうしでは、どのような場面で敬語や丁寧体が使われるのかについて考えていきましょう。



妻から夫への敬語・丁寧体ー富子と周造

この映画には48人の夫婦・恋人が登場します。70代の主人公・周造、富子夫妻、その長男、40代の幸之助・史枝夫妻。長女で同じく40代の成子・泰蔵夫妻、そして間もなく結婚することになる30代の次男庄太と、その恋人の憲子です。このうち、パートナーに対して敬語を使っているのは、富子、史枝の二人です。

まずは映画の事件の発端となった富子の誕生日の夜の周造・富子の会話を見ましょう。



1  周造:(飾ってある花束を見て)その花どうした? 買ってきたのか?
     富子: プレゼントよ。

     周造: 誰の?
     富子: 創作教室のお友だちから。仲間の決まりなの。お誕生日お花を贈るのは。                   今日 は わたしのバースデイなのよ。お忘れでしょうけど   
      周造: 創作教室…おまえいくつだと思ってんだ? 二十歳やそこらの娘たちが女流作家 
         にあこがれるのはわかるよ。いい年したおばさんが小説書くなんて気持ち悪いよ。お
        まえ、何書いているんだ?意外と濃厚な官能小説だったりしてな。 
      富子: お風呂沸いてますよ。
      周造: まあ、いいや。おれも久しぶりに誕生日のプレゼントでもするかな。なんかほし
         いものあるかい?
      富子: ほしいもの?
      周造: そう、ほしいもの。
      富子: そりゃ、あるけど。 
      周造: 言ってみろ。ただし高いものはだめだぞ。消費税は上がったし、近頃、預金崩し
         てんだからな、おれは。
      富子: そんなにお高いものじゃないの。お値段はね、450円ほど。
      周造: 450円、なんだ?それ。
      富子: ほんとにいいの? あのね、あたしがいただきたいものはこれ。ここに名前書い
           てハンコついてほしいの。450円は戸籍謄本取るためのお金。  
      周造: なんだ、これ?
      富子: 離婚届よ。
      周造: おい、冗談だろ?
      富子: 本気よ。考えといてちょうだい。お風呂に着替えおいときますから。

周造からみると、なんとまあコワい会話。彼は、自称は「おれ」、妻への呼びかけには「おまえ」を使い、「~か?」「なんだ?」という問いかけ、「言ってみろ」のような直接的な命令形を使うなど、あくまでも上位者から下の者へという感じで、ぶっきらぼうな話し方をしています。

これに対して、妻富子の話し方は、優しく穏やか。「お風呂」や「お金」はいわば美化語として使われているとも言えますが、「お誕生日」「お花」「お高い」「お値段」などの丁寧語、ですます体も交え、特に注目したいのは「お忘れ」(尊敬語)、「いただきたい」(謙譲語)などの敬語も使って話していることです。でも、話の内容を考えると、見てのとおり、会話をリードし、相手を圧迫しているのは富子で、周造のほうは、ポーズはエラそうだけれど終始受身で押され気味です。「お忘れでしょうけど」というのは妻の誕生日を覚えていないであろう夫への批判的な皮肉、「いただきたい」というのは「離婚届に署名してほしい」という要求の緩和として敬語を使っていると見ることができます。また、「お高い」「お値段」というのも、その品物が相手を驚かせる「離婚届」の値段ということから、あえて丁寧にかしこまって、相手から距離を置き、脅かしたと見ることもできるかもしれません。

イメージとしての夫婦のことば

実は、日本の旧来的な夫婦関係では夫が上(主)妻は下(従)とされ、夫婦のことばもそれを反映して、夫から妻には普通体言い切り、命令形の使用などが行われるのに対して、妻は夫に丁寧体や敬語を使って話すという非対称的な言語使用のイメージがあります。たとえば、武家の夫婦が登場する時代劇映画、明治~昭和あたりの中流家庭を描く家族小説、そして戦後から1940年代ぐらいの「現代映画」などにはそのような非対称な言語使用をする夫婦(恋人も)がたくさん登場します。もっとも方言話者の夫婦、落語などに出て来る下町の職人夫婦の妻などは、かならずしも夫に丁寧体では話しかけませんし、これは、あくまでも武家社会の主従的な夫婦関係が継承された明治期以後の中・上流家庭における言語イメージというべきかもしれません。

実際の夫婦の会話がどうなのかということは別問題とも言えます。小林(2018)では、先にあげた『談話資料 日常生活のことば』にあらわれた夫婦12組(合計120分ほど)の対話を分析し、①敬語の使用は全体としては夫よりは妻のほうが少し多いが、敬語の使用自体が、全体で7例のみときわめて少なく、それらは「いただきます」「お願いします」のような決まった言い方や、第三者に対して「お土産をいただいた」などと使ったものに限られています。②「食べる」を「食う」、「来ない」を「来ねえ」というような丁寧度が低いと考えられるくだけた言い方は夫に限られるが、すべての夫がこのような言い方をするわけではなく、まったく使わない夫もたくさんいること(周造もこのような言い方はしていません)を明らかにしました。また、③文末の終助詞や助動詞の使用についても、傾向差や個人差はあっても、特に若い世代の夫婦では男女の差はほとんどみられないこと、④丁寧体(です・ます)の使用もほぼ同様で、なかには夫がおもに丁寧体を使い、妻が普通体で答えているという夫婦もいること、⑤夫が妻を「おまえ」と呼び妻が「あなた」と呼ぶ夫婦は資料内には存在せず、「お父さん」「お母さん」、「パパ」「ママ」などと呼び合うのも高年齢の世代に限られていて、若い世代では名前や愛称で呼び合っていることなども言えます。要するに、すべての夫婦に一致する傾向などはみられず、それぞれの夫婦が個性や工夫によってことばを選びながら、大きな流れとしては中性化(夫婦間のことばの差の小さい方向)に進んでいるという感じでしょうか。なお、この自然資料作成に先立って、小林(2010)ではそれまでに作られた30本の日本映画に登場する夫婦のことばを分析しましたが、そこでは女性のことばやスピーチスタイルの中性化を反映して妻のことば・スピーチスタイルも中性化してくことが、特に2000年代以降の映画では顕著に表れていることを指摘しました。

このように見ていくと、周造・富子夫婦は旧来的ともいえる夫婦のことばづかいを継承しているとも言えそうですが、特にそのスピーチスタイルシフト(話体の変更)には、特に妻の場合、ただ夫を上位者として敬語を使うというのにはとどまらない「意味」が込めているようです。この妻は夫に対して、基本的には「の」や「よ」など女性専用形式と言われる終助詞をつけた普通体で話していますが、2か所「お風呂沸いてますよ」「着替え置いておきますから」と丁寧体にスイッチしています。そこも、それまでの夫の発話を打ち切り、話題を転換するとともに、自分が夫の世話をしているという立場を夫に確認・表明するような話体の変更と見ることができそうです。

史枝と幸之助

普通体から丁寧体へのスタイルシフトは、息子の妻、史枝から夫、幸之助への発話にも見ることができます。

2  幸之助: ママ、おれは大粒の水戸納豆じゃなきゃいやだって、いつも言ってるだろ?
     史枝: ごめん、スーパーになかったのよ。
     幸之助: ほかの店で探してくればいいじゃないか。
     史枝: 自分で買ってきてよ。そんなうるさいこと言うんなら。
     幸之助: おれは上海市の政府相手に難しい交渉してんだ。納豆なんか買う暇、あるわけな
         いだろ。
     史枝: あら、納豆の大豆は中国産じゃありませんの
      幸之助: 理屈にも何にもなってやしないよ。いやだな女は。

妻を「ママ」と呼び、朝ごはんの納豆の種類にわがままを言う夫・幸之助は妻に対して甘ったれた子供のような態度ですが、周造と同じくことばは上位者から下位者への偉そうな言い方です。「上海政府相手の難しい交渉をしている」などというのも、この会話の流れにはなんの関係もない、いわば自分はおまえよりエライというアピールにすぎませんから、見ているものからすると滑稽な感じですが、多分妻の史枝はカチンときたはずです。そこで「~じゃありませんの?」とそれまでとは少しスタイルを変えて、いなしつつ相手の理不尽を批判するわけですが、もしここで「納豆の大豆は中国産じゃないの?」などと普通体を使ったとすれば、相手への正面切った反論となって、幸之助は怒り、本格的なケンカになってしまうかもしれません。「~じゃありませんの?」は相手を少し上から見てバカにする、あるいは相手の理不尽を皮肉っているわけですが、ポーズとしてはあくまでも相手を立てる丁寧体。これを察知しても幸之助には正当な反論などはできませんから、「理屈にもなっていない」とまさに「理屈にもなっていない」反論をし、「いやだな女は」とこれもまた理屈にならない女一般への批判に転化するしかないわけです。

史枝から幸之助への熾烈な言語戦争?は次のような敬語使用にも表れています。

休日、両親の離婚問題で、家族会議を開くことになります。ところが、息子の野球の試合の応援に行こうとする幸之助。出かけようとする夫に気づいた史枝は夫をなじります。

3 史枝: ねえ、どこにいらっしゃるの
      幸之助: ケンの野球の試合だよ。
        史枝: だめよ。今日は家族会議じゃないの。

普段の会話で、夫に敬語を使うことはない史枝が突然に「どこにいらっしゃるの?」と声をかけたとき、多分幸之助はぎょっとしたはずです。ここでは敬語は相手の注意を喚起し、しかも批判的な意味をこめて使われていると言えます。

それでも、家族会議の開催と、出席に幸之助は不満を漏らします。

4幸之助:こんないい天気の日に家族会議だなんて。会社の会議でうんざりしている
   に、なんでうちに帰って会議なんかしなきゃいけないんだ。
  史枝:  今日はね、パパの会社のくだらない会議とは違うの。
  幸之助: くだらない? 言いすぎだぞ。くだらない会議とはなんだ。
  史枝: 自分でいつもおっしゃてるじゃないの。「会社の会議なんてくだらない。会議で 
  決まることなんて何一つない。あんなものやめたほうがいい」って。
  幸之助: そんなこと、いつ言ったんだ、おれが。
史枝: しょっちゅう、そうおっしゃてるじゃないの
  幸之助: だから、そういうくだらない会議もあると…。
  幸之助: 全部くだらないとは言ってないぞ。
  史枝: はっきり、そうおっしゃったじゃないの
  史枝: うそうそ。


もともとは相手が言ったこととはいえ、夫の会社の会議を「くだらない」と言い切るというのは相手を傷つける=面子をつぶす行為ですから、当然に、夫は怒ります。史枝も、もしかすると、内心しまった、言いすぎたと思ったかもしれません。しかしそういう様子はまったく見せず、あくまでも夫を批判する=傷つける姿勢を史枝はくずしません。ただし、相手を尊重する意を示す言語形式である敬語を使い続けることによって、形の上では相手を尊重しているという姿勢もくずさないわけです。相手の気持ちは実際にはそれで緩むわけではないでしょうが、「尊重されているのに緩まない」心情そのものがさらなる相手への批判ということになり、敬語を使うことにより批判はさらに強く行われることになります。

第三者=話題の人物としての夫への批判

今までの例は、いずれも妻が、夫に対して直接に相手の行動を批判、非難する文脈での敬語や丁寧体の使用ですが、夫を話題の人物として、他者に夫のことを語るという文脈で用いられたいわば第三者敬語も、この映画には見られます。

富子は娘や息子たちに、周造と離婚したくなったわけを次のように語ります。

5 富子: あたし、とても言いづらいことだけど、お父さんがいやになってきたの。たとえばね、朝、洗面所でガラガラガラって大きな声出してうがいなさるでしょ。そのあとで、プッとおならをなすったり。昔はね、結婚したてのころは男らしくていいなあと思ったり、それが夫婦の親しさなんだと嬉しかったりしていたけどね、近頃はそれがいやなの。お父さんはいつもパンツや靴下をお脱ぎになると裏返しのままポイって洗濯機に入れるでしょ。わたし、あれがいやでね、何度も言ったんだけどちっとも直してくださらないの


「うがい」「おなら」「パンツや靴下の脱ぎ着」というような日常的で、生理的な部分とも直結するような行為は、通常の会話で目上の人の行動として語られることは、まずないでしょう。ですから敬語とともに使われることも、特殊な場合を除いてはない、つまり敬語とは相容れない感じがします。そのような行為をあえて敬語を使って語ることにより、ここではそのような夫の行儀の悪さ、つまり品の悪い行動をあえて際立たせつつ、自分が夫にも敬語を使って語る貞淑な、上品な妻であるということも主張し、そのような形で夫を批判、非難しているのだと見ることができそうです。

なお、この映画の中では、夫が妻に対して敬語や丁寧体を使った例はありませんでした。まだ結婚していない恋人どうしである庄太から憲子に丁寧体が使われることがありますが、それについては、また後ほど述べることにします。

嫁・婿と舅・姑―娘婿・泰蔵の丁寧体・敬語

息子の妻(嫁)や娘の夫(婿)と夫の父母(舅・姑)は同じ家族でも「義理の関係(姻族)」ですから、嫁や婿から舅や姑に対して丁寧体や敬語を使うということはよくあります。特にまだ結婚して日が浅かったり、また離れて暮らしていて、互いにあまり会う機会がないような関係では互いに丁寧体を使うというようなこともあるようです。

この映画の中でも、長女・成子の夫泰蔵は、妻の両親だけでなく兄の幸之助に対しても基本的に丁寧体で、時に敬語も交えて話しています。

6 泰蔵:ごめんください。お義父さん、おはようございます。成子来てますか
あのー、なんつってました? 
  周造:君と別れるって。
  泰蔵:だから、その理由は何だって?
  周造:20万円の皿を買っといて、君は1万円って嘘をついてたんだろ?それが許せないってさ。
  泰蔵:そのことなんですけどもね。もちろん僕はよく知ってますよ。優秀な税理士の成子さんのおかげでもって生活が成り立ってるのに、5万も10万も金を出して皿を買える身分じゃないってことは。でもどうしても欲しくなっちゃったんですよ。絶対に掘り出し物。出すところに出せば50万以上は間違いない名品なんです

7 周造:別れちまえ、別れちまえ。俺だったら絶対結婚しないよ、あんな女とは。
  泰蔵:あんな女? お義父さん、自分の娘に向かっていくらなんでも、そんな言い方はないでしょう。第一僕の妻ですよ。  
  周造:別れたいんだろう?君は。  
  泰蔵:僕が言ったんじゃありませんよ。成子がそう言うんですよ。だから売り言葉に買い言葉でもって…。

8 泰蔵:お義父さん!じゃ、僕も言わしてもらいますよ。   
  周造:ああ、何でも言え! 
  泰蔵:悪いことは一つもしてないとおっしゃいますけど、なんですか、あの店は。駅の向うのか、か…、 
  周造:「かよ」か。
  泰蔵:「かよ」という居酒屋は。 
  周造:ああ知ってますよ。僕は酒が好きなんだ。行きつけの店の2軒や3軒あったって当たり前だろ。それがどうしたんだ。
  泰蔵:お義父さんはあの店の色っぽいおかみさんとただならぬ仲で、「かよちゃーん、愛しているのはお前だけだよ」などと口に出すのもはばかるようないやらしい会話をしていたことを、私はちゃんと証拠を握っています。この写真目に入らぬか!

6で泰蔵は「ごめんください」と声をかけて入ってきます。彼は一家の婿―義理の息子であるのは確かですが、本人の意識としては他家の人間であるということが、この挨拶にあらわれていると言ってよいでしょう。そうして入ってきた泰蔵は「成子来てますか?」と自分の妻(相手の娘)は呼び捨てですが、妻の父に対しては丁寧体をつかうわけです。部分的には文末が省略されたり、倒置されたり、言いさしたりした文もありますが、6、7、8と彼は妻の父に対して丁寧体をくずしません。6の最後は20万もする皿を妻には1万といって買ってしまったことへの言い訳ですが、ここでは「優秀な税理士、成子さん」と敬称「さん」をつけています。これは彼女の父親に対して言い訳をするという文脈のなかで、妻よりはその父親に対して気を使ったということでしょう。

7は別れてしまえと言う義父に対する反論、8はさらに義父を批判する文脈になりますが、いずれの場合も丁寧体をくずすことはありませんし、むしろ丁寧体を使うことにより、より強く相手への主張の効力をあげているようです。特に、8では、「悪いことは一つもしてないとおっしゃいますけど、なんですか、あの店は!」と、より批判の効果を高める敬語・丁寧体の使用が見られます。このような丁寧体による義父への批判が、最後に「この写真目に入らぬか!」とあたかも水戸黄門か、大岡越前かとも思われるような時代がかった詰問のことばの滑稽味をさらに際立たせるということにもなっています。

8では舅の周造も「知ってますよ」と一か所丁寧体で答えています。これも,もちろん対者の泰蔵に敬意を示したというわけではなく、彼の丁寧体に合わせ、それまでの普通体とは少し距離を変え、強い自己主張をした―いわば居直った―わけです。

泰蔵は妻の兄の妻(義姉ということになるのでしょうか)に対してもよく丁寧体を使います(成子と史枝がともにいる場面で、どちらにともなく普通体で話しかけるということはありますが)。9も10も、特に自己主張をしたり相手を批判したりするわけではない、普通の会話といってよいでしょう。対する史枝は普通体で、ごく親しい人に対するような言い方です。長男の妻として一家を担う中心的な存在である彼女は、(年齢の上下はわかりませんが)立場として、自分の夫の妹の夫を一家に含まれる親しい存在として見ているのだと言えます。

9 史枝:来てたの?
  泰蔵:どうしてます? 成子。
  史枝:泣いてるわよ。どこへ行くの?
  泰蔵:お義父さん、ビール飲みたいっていうからちょっと付き合ってきます
怒ってますか
  史枝:別れるって。

10  泰蔵:去年、義兄さん入院してたでしょ? 痔の手術で。            
    史枝:ええ。
    泰蔵:その後具合はどうですか?実は僕、いぼ痔になっちゃったんですよ。もういぼ痔って座るときが痛くって。
    成子:あんたは黙ってて!

10は「いぼ痔」の話で、ユーモラスですが少々下ネタ的?な品のない話題です。こういう話を普通体でしたらどうでしょうか? 「です・ます」を使うことによって少し距離を置き、相手の(夫の)痔に必要以上に踏み込まず、それによって自分の品位も保つような、泰蔵の一定の距離感覚が現れているようでもあります。

史枝は、長男の妻として家事をとりしきり、いわば一家の中心にいるような存在です。ですので、配偶者の両親との関係も泰蔵に比べればずっと近くて、遠慮のない仲と言えます。

11 史枝:だめじゃないの。こんな遅くまでお酒飲んで。メールご覧にならなかったんですか?

  周造:読みました! 私は優しい嫁のメールはちゃんと読みましたよ


11の史枝は義父を「だめじゃないの、こんなに遅くまでお酒を飲んで」と普通体で決めつけ
ます。他の部分にも一般的にはあまり丁寧体は使わず、親しい人に対する普通体の会話を行
っています。しかし、ここは決めつけすぎ? すぐにフォローするように、「ご覧にならな
かったんですか」と敬語で言います。でも、もちろんこれも批判の文脈での敬語ですから、
周造は酔っぱらって、少々冗談まがいにしながらも「読みました!」と丁寧体で答え恐縮す
るということになります。決めつけられ、叱られたうえで「優しい嫁」と相手に対していう
のは明らかに皮肉ですから、ここでの周造の丁寧体も一種の皮肉として使われているとも言
えるでしょう。

12  史枝:い、いらしたの
  周造:いましたよー
      史枝:あの、何か?
      周造:あわれな年寄りのためにいただけますか
      史枝:ダメです。もうずいぶん飲んでらっしゃるでしょ
      周造:お願いします
      史枝:お医者さんに叱られるのは私なんですからね。
      周造:医者がなんだ!持ってこいったら持ってこい!氷。
      史枝:はい!


12は大変面白いやり取りだと思います。中学生の息子に向かって、舅に対する不満を愚痴っていた史枝が、舅に聞かれていたのに気づき慌てるところから話が始まります。周造はここでは珍しく丁寧体で話していますが、最初の「いましたよー」は慌てる史枝への一種の皮肉、そして「氷を求める」のには、自分を「あわれな年寄り」と卑下しながら、下手(したて)にお願いする丁寧体です。これに対して史枝も、内容は「ダメです」とにべもなく、でありながらも丁寧体で返しているのは、周造の丁寧体に合わせながら、そこに相手に距離をとり、突き放して付け込ませないというような意図も込められていると言えるでしょう。

史枝の中には、その前に舅のいわば悪口を言っているのを聞かれてしまったという負い目もありますから、ここでは彼女は丁寧体を使って距離をとりながらも「ダメ」な理由をあれこれ言い立て、説得しようとします。一方の周造の「お願い」の丁寧体はあくまでも下手に出て言うことを聞かせようという意図によるものですから、相手が言うことを聞かないとなると、彼は突然にスピーチスタイルを変え、威丈高に要求をする。負い目のある史枝は(舅・嫁の関係ももちろんあるのでしょうが)「はい!」と従わざるを得なくなります。

普段親しい普通体での会話を行っているような関係でも、状況の変化や話の内容によって、関係性をベースに置いたスピーチスタイルシフトが行われるということがわかります。

長男・幸之助の丁寧体

この映画の中で、実の娘である成子や、次男の庄太は両親に対して基本的に普通体で話しています。ただし、長男の幸之助だけは、両親に話しかける場面自体は少ないのですが、丁寧体も使って話しています。

13  どういうことなんですか? お父さん。
      僕たちだって喜んで集まってるわけじゃないんですよ。こんないい天気の日に家族会
      議だなんて。会社の会議でうんざりしているのに、なんでうちに帰って会議なんかし
      なきゃいけないんだ。

14 空想だよ、空想。なーんにも現実がわかっちゃいないんだからお母さんは。人間はねえ、食って行かなきゃいけないんですよ。お金がいるんですよ。


13は父に、14は母に、いずれも家族会議の場面です。13は後半(ここは先にあげた4に続くところです)に、14は前半の普通体からシフトしていますが、どちらも幸之助にとっては弟妹とその配偶者などが一緒にその場にいる場面で、彼らにも向けつつ、自分の内心の感想を吐露して普通体を使用していると見ることができます。13の丁寧体は、父への詰問からはじまり、せっかくの日曜日にもめ事で家族会議を開く原因を作った(と幸之助がみている)父への不満を説教調で述べています。14のほうも離婚後の母のプランを空想と決めつけ、批判して、まさに言い聞かせている説教調のことばです。

大人になった息子から父母への丁寧体というのは妻から夫への丁寧体や敬語と同じく、映画や小説などでは見ることがあるように思います。これは独立して大人どうしの関係になったという息子の側の意識として、子ども時代よりは一歩距離を置いて話しているということでしょうか。親から子に丁寧体や敬語を使うということはあまりありませんから、そこにはもちろん親が上位、子が下位という地位関係は無関係ではないでしょうが、幼い時に使わなかった丁寧体を使うようになるとすれば、地位よりも親疎の距離の表明としての丁寧体や敬語ということになりそうです。武家社会などでは幼くても子どもが親に、また母親が息子に丁寧体で話すという場面がありますが、これも実態であるとすれば、地位よりも、親子の間の距離感によるのではないかと思われます。

さて、幸之助の場合も、話の内容から見ても、彼は両親に敬意を表して丁寧体を使っているのではなさそうですし、独立した大人として親と距離を置いた物言いなのでしょうが、説教や詰問に偏る丁寧体の使用には、妻が夫に対して行ったのと同じような批判的な意味が込められているということも言えそうです

父・周造の丁寧体

1112のような例を別にすると、家族の中でもっとも年長の男性である周造は、他の家族に丁寧体や敬語を使って話すということはありません。また、映画の中に出て来る彼の生活範囲は、退職後の親しい男性の友人との付き合いや、行きつけの飲み屋の親しい女将との付き合いに限られますから、家族以外に対しても丁寧体や敬語を使う場面は出てきません。

その彼が、比較的あらたまった感じで、丁寧体で話すのは、息子庄太の婚約者として紹介される憲子に対する場合です。

15    富子:のりこさんって、どんな字ですか
       憲子:憲法の憲です。
       富子:あら。いいわね。きりっとしてて。憲子さんご出身は?  
       憲子:福岡です。  
       富子:ご両親、お元気なの?
       憲子:はい。
       富子:ご心配ね。娘さんを一人で東京に出して。
       憲子:実は父は福岡にいますが、母は東京に。
       富子:あら、どうして?
       憲子:離婚しましたから。

16   周造:お嬢さん、驚いたでしょう? こんなハチャメチャなうちに嫁に来るなんて、いやになったでしょう?
      憲子:いいえ、わたし、そんなふうには。
          ・・・(庄太に、両親が離婚した経緯を話す)
      周造:それは、つまり、あなたのお父さんは置いていかれたってことですか?
      憲子:早く言えば。
      周造:気の毒に。同情しますね、僕は。お父さん、サラリーマンですか?
      憲子:はい。
      周造:おんなじだー。一生懸命家族のために働きぬいて満員電車、いやな上司、厳しいノルマ、孤独な単身赴任、家族のためにひたすら我慢して、その苦役からようやく解放されてホッとしたところに、このありさまだ。僕は何も悪いことなんかしていないのに。


15 で、妻富子は、初対面の息子の婚約者憲子に対し、「どんな字ですか」と名前の字を聞く最初の一言こそ丁寧体ですが、そのあとすぐに「です」「ます」を使わない、したしげな普通体に変わります。周造のほうは、その後16で、憲子に「お嬢さん」と呼びかけ、他の家族に話すのとは違い丁寧体で憲子の父について尋ねています。これは初対面でもあり、まだ結婚していない息子の恋人に対する一種の遠慮、というか距離をとって踏み込まない礼儀の表れで、女親と男親の、息子の相手に対する距離感が現れているようです。

最後に周造が突如普通体にスイッチするのは、憲子の父の境遇に自分を重ね合わせて、思わず自分の気持ちが発露したということでもあり、この話の内容が憲子に答えたというよりは、そこにいる家族全体に向けたものであるということでもあります。

プロポーズの丁寧体

ピアノ調律の仕事場であるホールに訪ねてきた恋人憲子に、庄太はマンションを買おうと思うので一緒に見に行かないかと誘います。学生時代の一時期を除いて実家で暮らしてきたわけ―父と兄の緩衝材=接着剤になってきたのだという身の上、しかしもう家を出ても大丈夫だろうということなど、普通体のインフォーマルな雰囲気で語り、これに対する憲子のことばも普通体です。―一緒にマンションを見に行きたいという庄太に「どうして私がいっしょに行かなきゃいけないの?」と問いかける憲子は、カマをかけているようでもあり、少し意地悪だなあという感じがしなくもありませんが―これに対して答える庄太のことばは次の通りです。


17  庄太:なんで、そんなこと? あ、あ、そうか…僕はまだ肝心なことを言ってなかっ
     たんだ。あらためて言います。僕は憲子さんと結婚して夫婦になりたい。そして
     一緒に暮らしたい。だからその部屋を君と見に行きたい。そういうことです。
       憲子:うれしい、いつ言ってくれるのかと思っていた。うれしい。

庄太のプロポーズの中心は「結婚して夫婦になり、一緒に暮らしたい」ということで、この部分を彼は、「結婚してください」「一緒に暮らしましょう」という相手への呼びかけではなく、自分の気持ちの発露という形で普通体で言い切ります。ただしそれを囲んで丁寧体の前置きと結語をつける、というちょっと凝った形のプロポーズをするわけです。この前置きと結語も実は、自分の気持ちをただ宣言したという形で、相手の意図を問うというふうにはなっていません。相手がどんな気持ちかということは、ここでは庄太にとって最も重要なことのはずですが、あえて相手に問わない庄太は、恐れているのか、あるいは相手の気持ちなどは問題外という自分本位の姿勢なのか…。まあ「うれしい」と相手が答えてくれたのでよかった、ということになるのでしょうが。

なお、映画やTVドラマでのプロポーズ場面では、ふだん普通体でインフォーマルに話している男女が丁寧体にスイッチするということがよくあるように思います。さまざまな関係や場面でどのようなプロポーズのことばがどのようなスピーチスタイルで語られるのか、などというのもちょっと興味深い気がします。なにしろ生の(実際の)プロポーズのことばを耳にするというのは当事者になる場合を除けば、まずありえないことですし。丁寧体にシフトするのは、一生の大問題として少しあらたまった態度を示すということなのかもしれませんが、時代が変わり、結婚観がかわるとことばが変わっていく可能性もあります。

そのあたりについては、次の機会に改めて、また考えてみましょう。

さて、まとめてみると

平田家ではすこし古風な妻から夫への丁寧体・敬語を形の上では残しながらも、単に下位者から上位者にむけてそれらが使われているわけでなく、そこに相手への批判や怒りなどを込めた意味合いでの使用が目立ちました。

また、娘婿から舅姑のような義理の関係では丁寧体を使って話すことがありますが、これは互いの距離感の問題で、距離が近い(同居していたり、親しい関係)場合には嫁や婿が舅姑に普通体で話すこともあるし、また距離が遠い(初対面であったり、あまり接触していないなど)では舅姑の側が嫁や婿に丁寧体を使うこともあります。

家庭内の親しい関係では、これらの上下・親疎などの関係による丁寧体や敬語使用の、いわば「ルール」を利用して、依頼やおもねりのような感情をそこに込めたり、批判的な感情を表明するためにあえて敬語や丁寧体を使うということのほうが、むしろ多いといってもいいようです。



高齢夫婦  夫→妻 普通体  妻→夫  丁寧体
非対称・・・地位関係(夫=上、妻=下)による
妻の丁寧体・敬語・・不満・批判・主張などの場面であらわれる・・・心情による
義理の関係 婿・嫁→舅・姑  丁寧体
別居の「娘婿」・・丁寧体・敬語 同居の「嫁」・・丁寧体+普通体
・・・距離感(親しさ)による  舅・姑の側からは普通体
★舅・周造が「未来の嫁」には丁寧体で話す(姑はすぐに普通体に移行)
・・・距離感(親しさの意識)による
★息子幸之助→父母 丁寧体
・・・距離感(=より大人の他人どうしの関係に近い独立意識)による+心情も
あらたまりの丁寧体
★プロポーズ
★舅・周造→嫁・史枝 依頼(酔って、必ず断られるとわかっているような依頼を、
「ふざけ」を装ってした)





【参考資料】

・現代日本語研究会 遠藤織枝・小林美恵子・佐竹久仁子・髙橋美奈子編(2016)『談話資料 日常生活のことば』ひつじ書房

  小林美恵子(2010)「1960年代~現代の映画にみる妻の「美しい」日本語」『ことば』31号現代日本語研究会


  小林美恵子(2018)「「夫婦のことば」ちょっとのぞき見」『いまどきの日本語 変わることば変わらないことば』ひつじ書房 第5






0 件のコメント:

コメントを投稿

『告白』にみる学校のことばー親疎表現を中心にー

  【こんな映画】             監督:中島哲也  2010年 106分      原作:湊かなえ   出演:松たか子(森口悠子)      岡田将生(寺田良輝)      芦田愛菜(愛美・森口の娘)      西井幸人(少年A・渡辺修哉)      藤原薫 (少年B・...