2022年1月5日水曜日

『告白』にみる学校のことばー親疎表現を中心にー

 【こんな映画】         

  監督:中島哲也  2010年 106分
  
  原作:湊かなえ

  出演:松たか子(森口悠子)
     岡田将生(寺田良輝)
     芦田愛菜(愛美・森口の娘)
     西井幸人(少年A・渡辺修哉)
     藤原薫 (少年B・下村直樹)
     橋本愛 (北原美月)
     木村佳乃(下村優子・直樹の母)




ある日、中学の女性教師・森口悠子の3歳の一人娘・愛美が、森口の勤務する学校のプールで溺死体になって発見されます。数ヵ月後の学年末、クラスの生徒たちを前にして、森口は教師を辞めることにしたと言い、「私の娘はこの1B組の生徒二人に殺されたのです」と衝撃の告白、さらにある方法でその二人の生徒に復讐したと宣言します。
そして4月、クラスはそのまま2年生に進級。犯人のひとりA(渡辺修哉)はクラスのイジメの標的になっていました。そして、もうひとりの犯人B(下村直樹)は登校拒否し、自宅に引きこもります。新担任の寺田良輝はクラス委員長の北原美月とともに、毎日直樹の家に登校を促しに通うのですが・・・・・。
13歳の中学生の中に潜む残酷な心の闇が、登場人物たちのさまざまな告白により明らかにしなっていくようすを描き、子どもと母親の関係性、現代の子どもたちの生き辛さを、痛いほどに生々しく描き出した問題作として評価され、2011年の第34回日本アカデミー賞を受賞した作品です。原作は2009年の本屋大賞を受賞した湊かなえの同名小説で、それ以前2000年前後に、日本で多発して問題になった少年犯罪事件をベースにして描かれたとして、これも大いに社会的な話題になりました。


中島哲也監督は、1959年生まれ。テレビのCM製作で名を知られるようになり、『下妻物語』(2004)、『嫌われ松子の一生』(2006)『パコと魔法の絵本』(2008)などの作品があります。これより前の映画では実写とともに書割のような鮮やかな色づかいの背景の中での、非現実的な場面を織り込むポップな演出で話題を呼びました。この映画ではむしろ暗い場面中心で、リアリティのある映像を見せています。ただし、スローモーションの多用とか、さまざまな中学生たちの挿入映像、また最終場面などは様式化された劇的な演出がされており、他の作品とも共通する中島哲也の世界とも言うべき映像を見ることができます。
また、この映画では今や高校生になった名子役芦田愛菜が幼い可愛らしい姿で幼い愛美を演じており、橋本愛はじめ、現在活躍する若手の女優・男優陣が、中学生役として出演しているのも時の流れを感じさせます。


【ことばに関する着眼点】

この映画には二人の教師が出てきます。女性と男性、中堅と若手、性格も違う二人で、、生徒に対する態度や、かけることばの使い方なども対照的です。それぞれは、それなりの信念をもってことばを選んでいることが物語の中で示されますが、生徒たちの受け取り方は、必ずしも教師の側の意図したとおりには行っていないようです。そのあたりの食い違いがなぜ起こるのかを考えてみたいところです。
また、教師から生徒への呼びかけ、生徒どうしの呼びかけ、母から息子への呼びかけ方なども人間関係を示しているようで興味深いものがあります。中学生の少年から先生や、母親への話し方、また母親から息子への話しかけなどについても、人間関係を反映している面がありますので確認してみましょう。
なお、この映画は題名のとおり多くの部分が「告白」として、生徒たちに向かって、あるいは生徒から教師に向けてはいるけれど返事を求めないモノローグとして、さらにSNSなどでの語りとして話されています。その部分といわゆる相手のあるセリフの部分ではことばの使い方が違っている、そこも注意しておきたいところでしょう。


教師の話し方ー森口先生の丁寧体

映画は3月終業式、中学2年生の教室で担任の森口悠子が生徒に向かって話す場面から始まります。森口先生は、生徒たちに牛乳のカルシウムが思春期の肉体と精神に影響があるかどうかわからないが…ということから語り起こし、4月の身体測定時になんらかの変化が見られるでしょうと意味深げな話しをしたあと、その変化を見ることなく3月末で自分は仕事を辞めると生徒たちに告げます。これに対する生徒たちの反応は「え、まじでー?」「やったー!」というもので、彼らは決して真面目に静粛に先生の話を聞こうとはしないのです。
続けて、教育界で有名な「桜宮正義先生」を知っているか?と生徒に問いかけた森口先生はこんなふうに話を進めます。

(1)森口:桜宮先生に比べれば、わたしは物足りない教師だったかもしれません。
    わたしが自分に設けたルールは二つだけです。
    生徒たちを呼び捨てにしない、それからできる限り生徒と同じ目線に立ち、丁寧
    なことばで話す。
    友達どうしのようにタメ口でしゃべりあい、どんな相談にも乗る、そんな学園ド
    ラマみたいなコミュニケーションを望む人には、わたしは冷たく映ったでしょ
    うごめんなさいね、野口さん。真夜中に死にたいとか痩せたいとかメールを
    送ってくれるあなたに親切に答えてあげられなくて。なによりわたしはあなた方
    のことばを100%信じたりできません。

このことばに、生徒たちは騒然となるわけですが、そのあと森口先生は、生徒を信じられないわけ―パートナーであった桜宮正義のエイズ感染から死までや、彼との娘・愛美の出生から生徒の手による死というショッキングな出来事について「告白」し、そして愛美を殺した少年たちを、牛乳に混ぜた桜宮の血液によるエイズ感染の可能性にかけて復讐するという大変に悲惨でもあり、恐ろしい意思表明をします。
森口先生が「呼び捨てにせず、丁寧なことばで話す」というのは、日常的な教師としての「信念」によるもので、実際にこの場面でも先生はほぼ丁寧体基調で話しています。普通体になるのは「呼び捨てにしない」「丁寧なことばで話す」などのように、伝えたいことの中心をなす部分で、この場合は、言いたいことを端的に浮き立たせるために普通体が使用されているようです。このような「信念」は教師としては特異なものとはいえず、少なくとも授業など大勢を前にしてのいわばオフィシャルな場面では、そういう丁寧な話し方をする教師は多いと思われます。

実際に、かつて30名(女性14、男性16)の中学・高校のいろいろな教科の先生方(20代~60代)に、1人1授業時間ずつの録音を提供していただきデータベースとして、教師の授業のことばについて調べたことがあります。そこでの先生方の丁寧体の使用度(総発話数に占める丁寧体の割合)は平均34.2%、最高69.8%でした。34%というと少ないようにも思えるかもしれませんが、すべての発話の中には「うん」「なるほど」などの応答詞や、「よくできたね」「わかったね」などのように生徒に共感をもって呼びかける文、さらには「○○さん」「○○くん」などの呼名をする、どれもが多くは1語文かそれに近い短い文であるものも含まれていますし、もちろん先にあげた森口先生のように、伝達の根幹をなす部分を普通体で言い切るということもありますので、30%程度丁寧体が含まれる話は、印象としては決して乱暴な感じはしません。
丁寧体の割合が最も低かったのは30代の男性教師が44名全員男子という教室で行った数学の授業で9.8%、丁寧体比率20%未満は。全員男性教師でした。ただし男性の方が全般的に丁寧度が低いとも言えず、丁寧体の比率が50%以上に丁寧度の高い教師6名は男女半々でした。なお、女性の教師で丁寧度が低かった2人(20代25.9%、50代20.6%)はいずれも受講者のほとんどが男子という授業で、相手が同性かどうかよりも男子に向かう場合の方がことばがフランクになる傾向があるようです、高いほうで70%近く丁寧体を含んでいたのは通信制高校の2つのスクーリング授業で、教師はそれぞれ30代男性と40代女性でしたが、どちらも生徒は男女入り混じり、年代の幅も広く学齢期から教師と同じくらいかもっと年上の人もいるというような状況でした。
なお、授業の中で教師の発話量の割合が高い方が丁寧度も高くなるという傾向も見られました。授業時間の長さはほぼ決まっていますから、教師の発話量が多いということは先生が一人でしゃべる講演型の授業をしているということです。その場合には丁寧な話し方をするーいっぽう教師の発話量が少ないということは生徒の発話も多いということで、対話型の授業が行われていることが察せられます。その場合には互いに対人距離の調節も行いながらということになりますから、生徒の状況に合わせて先生もよりフランクな普通体での発話が増えるということになるわけでしょう(小林2007・2008-1)。


さて、このように教師の語り口としては自然なものと思われる森口先生の教室でのことばですが、生徒たちはあまり真面目に聞こうとはしません。また、映画を見ている観客には、森口先生の話し方はずいぶん他人行儀で、本人も言っているように冷たく聞こえます。生徒に復讐するという彼女の意図がこのようなことば(話体)選びにもに反映しているのです。つまり、同じような言語形式を選んで話したとしても状況や相手との関係により「丁寧で相手を尊重する」にも「冷たく突き放す他人行儀な」話し方にもなるわけです。

教師の話し方ー寺田先生の普通体・友だちことば

4月になり、森口先生の後このクラスの担任になる寺田良輝先生は、森口先生とは全く違ったことばのスタンスで生徒たちの前に現われます。初対面の挨拶でまず自分のニックネームを「よしてる=ウェルテル」と紹介し、「悩んでいるわけではない―「若きウェルテルの悩み」(ゲーテ)ですね。でも映画の中の生徒たちには通じているのかな?)―と冗談を言ったうえで「僕はまっさらな気持ちで君たちに向き合いたい」「みんなどんどん僕にぶつかってきてくれ」「みんなの兄貴にぼくはなりたいんだ」と普通体基調でたたみかけます。そして生徒を名前の呼び捨てや「ざっきー」「すぎじゅん」のようなニックネームで呼び、自分自身をも「先生」ではなく「ウェルテル」と呼ぶようにと生徒たちに言うのです。いわば、森口先生の言う「友達どうしのようにタメ口でしゃべりあい、どんな相談にも乗る、そんな学園ドラマみたいなコミュニケーション」を取ろうとしているのが寺田先生というわけでしょう。

現実の教師を思い浮かべると、ここまでフランクな物言いの先生は少ないかも…とは思いますが、寺田先生は純真な熱血漢で、生徒と親しくして生徒の力になりたいと願っているという点では決して悪い教師というわけではない、生徒たちも一部を除いては概ね、このような彼の姿勢や物言いを歓迎している(少なくともそのポーズをとっている)ように映画では描かれています。
しかし、このような寺田先生のあり方は北原美月のような生徒からは厳しく批判されます。寺田のことばは美月には「クラスの中で何も知らないのは寺田だけだ」と、非常に空疎・無配慮なものに聞こえてしまいます。特に自身が小学生のときに「美月のアホ」という語源からつけられた「ミズホ」というあだ名で、寺田から呼びかけられ、美月はその無神経さを許すことができません。

このような事件が起きた学校でクラス替えもなく学年が進むというのはあまり考えられませんし、子どもを校内事故で失って学校を去った前任教師の事情や、そこに「事故」とはいえ特定の生徒も絡んでいたというようなことをまったく知らされずに、後任の担任が決まるというのも現実には考えにくいことです(現に森口と桜宮ファンの寺田が知り合いであったことが、あとで森口の口から明かされます)。となると、寺田先生は美月が言うように「何も知らない」のではなく、事情を知ったうえで、あえてこのようなことばを使い生徒に寄り添って親しみを表し、その気持ちをほぐそうとしていると考えるべきかもしれません。寺田は決して生徒を下に見たり、ましてバカにしたりして、このような普通体・ニックネーム呼びかけのフランクな話し方をしているのではありません。それは、森口が時に敬語まじりの丁寧体を使い、「さん」づけで呼んで尊重はしていても、生徒を、決して目上として尊敬しているわけではないのと変わるところはないのです。


ポライトネス理論(Brown&Levinson)にあてはめてみると…

このような丁寧体・普通体の使い分けは「ポライトネス理論」にあてはめてみるとわかりやすいように思われます。
1987年、アメリカの言語学者ペネロペ・ブラウンとイギリスの社会学者スティーヴン・レビンソンによって提唱された「ポライトネス理論」の「ポライトネス」とは、英語の「Politeness」が意味する一般的な「丁寧さ」のことではなく、人間関係の距離を調整するための言語的な配慮(ストラテジー)とされ、敬語や丁寧体・普通体の使い分けがある日本語はもちろん、どのような言語にも普遍的にある考え方とされます。
ポライトネス理論の鍵となるのはfaceという考え方です。すなわち、人間には、人と人とのかかわり合いに関する「基本的欲求」として、「ポジティブ・フェイス(positive face)」と「ネガティブ・フェイス(negative face)」という二種類のフェイスがあるとされます。ポジティブ・フェイスとは、他者に理解されたい、好かれたい、賞賛されたいという「プラス方向への欲求」であり、ネガティブ・フェイスは、他者に邪魔されたり立ち入られたくない、つまり侵害されたくないという「マイナス方向に関わる欲求」です。私たちは他者と話すとき、相手にほめられたらうれしいし、否定されたり意にそわない要求を強くされたりすると不快です。相手に対しても「親しみの気持ちを感じさせたい」「ずかずか踏み込んで相手に不快感を抱かせないようにーそれはとりもなおさず自分に対しても跳ね返ってくる可能性がありますからー」などと気を使って話しています。
この「気を使う」としたのが「ポライトネス」で、相手のポジティブ・フェイスを満たすのが「ポジティブ・ポライトネス」、つまりほめたり、親しみを表して仲間内だけのことばを使ったり、タメ口をしたり一見相手を傷つけるような冗談ー実はそれほどのことを言っても自分たちは互いに許し合える仲だということになりますー、呼び捨てや愛称で呼びかけたりなどです。またネガティブ・フェイスに配慮するストラテジーが「ネガティブ・ポライトネス」で、丁寧な話し方をしたり、あからさまな表現をせず間接的に言う、呼びかけも直接には行わなかったり地位名称などで間接的に呼んだりします。相手を目上(距離を置いて踏み込まない)として使われる敬語や丁寧体もネガティブ・ポライトネスの一つということになります。ポジティブ、ネガティブ、どちらも相手に気を使っているのは同じですが、相手との距離の取り方が違う(「対人調節機能」などと言います)わけです。日本語でいうと、それぞれ「親近」「敬遠」(ただし「ネガティブ・ポライトネス」はネガティブとはいっても「否定」を表すわけではありませんので、日本語の「敬遠」というよりは「親敬遠?」という感じかも。相手を純粋に尊敬して使う敬語もネガティブ・ポライトネスです)ことになるのかもしれません。
『告白』では寺田先生ポジティブ・ポライトネスを目指し、森口先生はネガティブ・ポライトネスを用いているということになります。どちらも相手の生徒たちに「気を使って」いるのですが、その距離の取り方が違うわけです。ただ、ポライトネスというのはルールというよりストラテジー(方略)ですから、相手や場によって話者に選びとられるもので、ルールに従えば必ず成功するというわけではありません。相手や場に対して誤った判断をしたり、あるいは距離感が食い違ったりすると、方略は成功しません。また方略ですから、こちらと相手の意識のズレを利用して「気を使っているふう」を装いながら相手を陥れる?などということも可能でしょう。寺田先生の親しみの気持ちが生徒に伝わらないとか、森口先生が生徒を尊重している、と言いながら、むしろ突き放して冷たい威嚇的な内容をそこに込めるなどと言うことは、その例ということができそうです。

森口先生の普通体・寺田先生の丁寧体

教室で生徒の前に立つと丁寧体基調の森口先生ですが、生徒に向かって普通体で話す場面がないわけではありません。事件が起こる前、「成績優秀で、表向き内は何の問題もないが、時どき耳にする不気味なうわさが気になる」生徒として「修哉」は彼女の前に現れます。修哉は発明したという「びっくり財布」を森口に見せます。彼はこの発明を中学生の発明全国大会に出品したいと、担任の森口に書類への押印を求めるのです。

(2)  修哉:先生の専門は?
     森口:化学よ。
     修哉:電気とかは?
     森口:それなら、あなたのお父さんの方が詳しいでしょ?
     修哉:いいもの入っているから開けてみて。
            森口:(財布をあけると火花が散る)あっ!
            修哉:(笑って)すごいでしょ?
            森口:わたしを実験台にしたの? こんなものを作って、動物でも殺すつも
       り?
            修哉:そんなことしか言えないんだ。
       ‥‥‥‥……………………… 
            森口:(修哉が書いた出品のための書類を読む)「盗難防止びっくり財布、大
       切なお小遣いを泥棒から守る」処刑マシーンじゃなかったの?
            修哉:いいから、ここにハンコ押してよ。
            森口:(読む)「社会に貢献する」
            修哉:ああ、もう! そんなに危険って思うならどっちが正しいか審査員に判
       断してもらおうよ。

ここで目立つのは修哉という少年の、先生になんらかのお願いをするという場面とは思えないような、乱暴ではないけれども、感情の直接発露しているような自己中心的なタメ口発話です。駄々っ子のように先生を威嚇さえするようなこの発話は成績優秀というこの少年のいびつさを示しているようでもあります。それに対して森口は決して好感情は持たず、むしろ修哉の言動に不安を感じ忌避感もありますが、「突き放す冷たい」丁寧体ではなく、「親近を表す」普通体で話しています。修哉の普通体がむしろ上から下への物言いのような脅しのような雰囲気を持つのに対し、ここでは森口はむしろ押され気味で、単に友達どうしが話すような普通体使用です。決して怒りゆえ、あるいは命令するための普通体ではないのです。ちなみに映画のクライマックスで、森口は修哉に電話をかけ、ついで姿を現して、彼のそれまで行為を批判・非難しますが、その場面では修哉への語りかけは丁寧体基調で行われます。それに対する修哉の応答は「黙れ!」「おまえなんかに何がわかる」「うるさい!」といったもので、すでに相手がだれかというより自分の感情のみを垂れ流しているという発話です。
(2)では、相手(生徒)が普通体だから、自分(教師)も普通体で話すということもあるでしょうが、むしろ森口先生が、事件前、普通の教師として生徒と「個人的な」「1対1で」会話をするような場合、普通体を使用していたことが示唆されています。これは一般的な教師のことば選びとしては特異なものではないと思われます。授業では丁寧体基調で話す先生が、生徒と個人的に話す場合や、クラブ活動で比較的少人数を指導するような場合に普通体基調にスイッチすることはよくあります。これも授業など公けの場での生徒との距離の取り方と、部活や個人的な会話での相手との距離の取り方が違うゆえかと思われます。
教師の生徒に対する距離の取り方は人(寺田と森口)によっても違いますが、同じ先生(と生徒)でも場によっても違うわけです。ちなみに寺田先生も教室場面で丁寧体を使うことがあります。

(3)寺田:このクラスにはいじめがあります。いじめられているのは渡辺修哉くんです。
         昨日集めたノートにこんなメッセージが挟まれていた。勇気ある生徒から届いた
             このメッセージを無駄にしたくない。これはいじめじゃない! 嫉妬だ!学年
             でもトップを争う成績の修哉をうらやましがり、いやがらせをしているやつがい
             る。修哉が勉強できるからって、自分が修哉より劣っているなんて思うなよ!
  美月:(心内の声)そんなことだれも思っていない。

ある生徒が同じクラスの生徒にいじめられているーその話題を提示する最初の発話は丁寧体で行われます。次の「ノートのメッセージ」は事実の提示で普通体。以下は寺田自身のその事実に対する感想・判断(つまり気持ちの発露=一般的に普通体で行われることが多い.。このような言いかたは寺田の「熱血ぶり」を示すものでもあるでしょう)で、最後に禁止の命令形(普通体)でこの話は閉じられます。だれかのノートメッセージのみを根拠に、事実をさらに詳しく確かめることもせず、自分の判断や思いだけを述べる独りよがりな展開はただちに美月の反発を買うわけですが、それはともかく、最初に話題が提起されているところで丁寧体が用いられることによって、これからする話が、普段とは違う重要な問題だという寺田の改まりの気持ちが示されていることに注目したいと思います。先に人(相手)や場によって相手との距離感の違いが変わる(それがことばに反映する)と述べましたが、話題によっても変わることがわかります。
なお、森口ももちろん、寺田も生徒の親(保護者)と話すときには丁寧体基調です。

(4)寺田:どうですか?直樹くんの様子は。 少しでいいですから話ができませんか。

寺田は生徒にはポジティブ・ポライトネス、保護者にはネガティブ・ポライトネスで対しているわけで、これも教師としては一般的な話体選択ですが、話体がどうであれ(いかに丁寧に話そうとも)直樹の母、下田優子に受け入れられることは結局ありません。

生徒から教師へのことば

さて次は生徒から先生に対する場合のことばを見てみましょう。寺田先生のように先生が生徒に対してポジティブ・ポライトネスの普通体使用をする場合でも、「おとなの感覚」では生徒は、先生を目上として丁寧体を使うというのが一般的かと思われます。が、この映画の場合、先の森口先生の話を真面目に聞こうとせず「えー、まじで」とか「やったー」などという感情的な反応を示すシーンとか、修哉が森口に対して書類への押印を依頼した(2)のように、中学生は先生に対して敬語形式はもちろん丁寧体での発話もしないことが多いようです。丁寧体使用の場合でも、

(5)森口:ところで桜宮正義先生を知ってる人は?
   男子生徒:あ、はいはいはい。この本(と見せる)書いたすっげー最高の先生で、な
       んていうか、あの人の生き方はすっげー、
   森口:本を出されたり、テレビに出演されたり、話題の熱血先生です。
   男子生徒:そうそうそう。で、ほんとは不良で、退校処分になって世界中を回って、
        帰ってきて教師になりましたね。

という具合で、この教室の中では、読書もする知的レベルが高そうな生徒で桜宮先生には「最高」と心酔しているようですが、どうもことばの上からはあまりそういう感じがしません。「はい」や「そう」の重ね、「すっげー」のようなくだけた表現、桜宮を「あの人」と呼ぶような生意気さ?にもそれが感じられます。

(6)男子生徒(水野):先生、具合が悪いので保健室へ行ってもいいですか?

(7)森口:この学校では自分のクラスの生徒でも、呼び出した相手が異性なら、別の同性
      の先生に行ってもらうことになっています。このクラスの男子がわたしを呼び出
      した場合A組の戸倉先生にいってもらうというように。
  女子生徒(野口):そんなの担任として無責任だと思います。
  女子生徒(佐々木):無責任だと思いますぅ!
  森口:なるほど、そう見えるかもしれませんね。

(6)のように、自分の利益になるような申し出(お願い)をする場合や、(7)のような批判的な言辞では丁寧体の使用も行われるのですが、特に大勢で口々に疑問や感想、意見を述べる場合は以下の(8)のような、あからさまに相手に踏み込むような普通体での意見提示も行われています。

(8)女子生徒:なんで結婚しないの?
   森口:たとえ生まれた子が(HIVに)感染してなくても、父親が感染者だとわかれば  
      差別は免れません。
  男子生徒:差別する方がわりいじゃん。
  森口:それは父親がいないことよりずっと子どもを苦しめる、それが彼(娘の父であ
       る桜宮)の判断で、私もその意見に賛成しました。
  男子生徒:子どもがかわいそうだろ。
  女子生徒:父親失格じゃん。
  男子生徒:逃げてるだけだろ。

この映画は10年以上前の2010年に作られていて、HIV(エイズ)患者に対する見方や、その差別に対する判断などは、映画の中で森口先生もちょっと触れてはいるのですが、現在ではだいぶ変わってきていると思われます。

映画の中の生徒たちは、殺人に関わった修哉や直樹以外についても、クラス内で起こった殺人事件の犯人(修哉)をSNSでつるし上げ、そこに加担しない生徒(美月)をいじめたり、、不登校になった生徒(直樹)に「ひとごろし」という隠し文字の入った「励まし」の色紙を送るなど、全体にかなりゆがんだ自己中心的・非社会的存在としての描かれ方がされています。精神的には成熟しない幼児的資質が残っている生徒が多い感じです。ですので、(2)の修哉や(8)のような発話の言語形式は極端に描かれて、現実とは若干距離があるかもしれません。
それにしても、『家族はつらいよ』や『万引き家族』でもそうだったように、一家の中の子どもー幼い存在ーが年長の両親や祖父母などの家族に丁寧体を使うことはなく、フランクな普通体で話すのが普通です。「敬語(や話体)」の習得の難しさもあるからか、日本語では少なくとも家族間の(もしくは他人の場合でも)幼い年下から年上・目上への敬語や丁寧体の使用に関しては治外法権的(特に期待されていない)に見られているようです。幼児や小学生あたりだと、その延長で日常的に付きあうことの多い担任の先生などに、「親しみ」の表象として普通体の、あたかも家族や友達に対するのと同じようなことば遣いをすることがあります。『告白』の中学生はその意味でも「幼児的存在」として描かれているのかもしれません。そして、その結果『告白』では「目上」である森口が丁寧体、「目下=年下」の生徒が友達に対するような普通体と、いわば敬語のルールから言えば一種の逆転現象が起きてしまっています。
学校言語として、低学年教科書などは「です・ます」の丁寧体でかかれていますし、先生も授業など公の場では丁寧体というわけで、保育園・幼稚園から小学校など集団教育の場で、子どもたちは作文などの書きことばから始めて、丁寧体を自分でも使う機会を得るようになります。その中で成長し先生との距離の取り方なども変わってきて、高校生・大学生ぐらいになると教師に面と向かって普通体(友だちことば)でしゃべるような学生はいなくなります(個人差や学校による差はあるかもしれません)。中学生というのはその狭間にあって「おとな―こども」の間にいる微妙な存在といえるかもしれません。
この映画の渡辺修哉も、相手がだれであっても会話では普通体基調ですし、映画の骨子をなす「告白」(修哉の場合はWebの動画に語りかけるという形式)も普通体ですが、みずから立ち上げたウェブサイトのトップには「電子工学好きの天才小学生がすごい発明をのせています」、書いた作文では「命の重さをしりなさい、そうおっしゃった森口先生のことばが忘れられません。愛する一人娘を不幸な事故で亡くされた先生の、その真実のことばは…」といった具合で丁寧体、敬語もきちんと使っています。つまり丁寧体や敬語の存在を知らない(使いこなせない)というわけではないのです。
また、北原美月の場合、森口先生への語りかけの形で行われる「告白」部分は丁寧体基調ですが、実際の会話になるとこんな具合です。二人が、不登校になった直樹の家に宿題などの届け物を持って訪ねて行き、直樹に母に拒否され門前払いされた後…。

(9)美月:先生。
   寺田:ウェルテルだ。
   美月:こんなことを続けても直くんは絶対学校に来ないと思うし、これって、逆に
       直くんを追い詰める。
   寺田:ミヅホ! 今が正念場なんだ。これを乗り越えれば光が見える。

「先生」と呼びかけて、ニックネームで呼ぶようにと言いなおされた美月は丁寧体で話すことも同時に封じられてしまったようで黙ってしまいます。寺田の空疎な希望に同意できない美月はこのあと直樹を不登校に追い込んだのは寺田自身だとして彼を憎み「死んでしまえばいい」とさえ、思うようになります。
彼女は、また森口先生との直接対話では、牛乳に血を「混ぜてないんですよね」と丁寧体で話しかけますが、その返答としての森口が桜宮に心酔する寺田を利用して修哉へのいじめが助長され、不登校になった直樹が追いつめられるように画策したのだという長い「告白」を聞かされ、ここでもことばを失ってあいづち的な返答しかできなくなります。そして最後はこんな展開…あくまでも丁寧体を崩さない森口と、自分の思いを直接的にぶつける美月の対比が際立つ場面です。

(10)森口:わたしは家族を失いました。
   美月:修哉くんを…
   森口:わたしは許しません。
   美月:違うの。修哉は寂しいだけなの。振り向いてほしいだけなの、お母さんに。
       別れた、自分を捨てた母親に自分を認めてほしくて、それで…。
   森口:(笑う)

修哉の唯一の理解者として自身のうちにも共感を自覚していた美月は、それゆえに自分を唯一と考えたい修哉にとっては腹立たしい存在になってしまい、このあと、修哉に殺されてしまいます。  

人の呼び方ー教師から生徒、級友どうし 

先に、寺田の生徒に対する名前の呼び捨てやニックネームなどの呼称は、ポジティブ・ポライトネスとして行われていることを書きました。森口先生のほうは、生徒に対しては、女子生徒には「野口さん」「北原さん」、男子には「渡辺くん」のように名字(姓)で呼び男女で敬称を変えています。このような呼び方は、ジェンダー的視点から批判されることもあり、大学などに進むとこのような呼び分けは比較的少なくなっていき、男女ともに「さん」で呼ばれることが多くなっていくのではないか思われますが、小林(2008-2)の調査では、高校までは女性教師が生徒を呼ぶ場合を中心に、わりあい一般的な呼び方といえます。男性の教師の方は「さん」「くん」をつけるより男女ともに「姓を呼び捨てる」という傾向があるようです。林・大島(2021)によれば、多くの公共媒体(新聞・ニュースなど)で、原則的に小学生女児に対しては「さん」、小学生男児に対しては「くん」を用いるという方針を採用している(NHK 放送文化研究所2005:68–69、共同通信社2016:536–537、前田ほか2020:208)とのことで、20代男女に実施した調査でも、男性は職場の上司・先輩・学校時代の教師・同級生の父母などから「くん」で呼ばれたことがあり(「さん」もあるのですが)、女性にはほとんど「くん」で呼ばれた経験がないという結果だったそうです。
このような教師の生徒に対する呼称は、いわば「学校用語」として生徒にも影響し、級友どうしなどでそれほど親しくないという関係では互いに「名字さん」「名字くん」のように呼び合うことは多いと思われます。ただ、親しい関係では、あるいは親しくなるにつれ、「名前さん」「名前くん」さらに「名前呼び捨て」やニックネームなどで呼ぶようになります。実際に映画の中でも、北原美月は、最初「修哉くん」と呼んでいた渡辺修哉を最後の方では「修哉」と呼び捨てにするようになりますし((10)で、修哉に言及する際にも、最初は「修哉くん」と呼んでいた美月が、後半「修哉」と呼び捨てにしますが、これは後半では美月自身が修哉の代弁をするーより修哉に近い存在として自分を感じたことによるのでしょう)、級友の中でも比較的親しい関係にあったのでしょうか、下村直樹のことは「直くん」と呼んでいます。
なお、これに対して、直樹が美月を呼ぶ場面はありませんが、修哉のほうは「きみ」と呼んでいた美月を、最後に怒りにまかせて「おまえ」と呼ぶ場面があります。

人の呼び方ー4人の母

この映画には4人の「母」が登場します。まずは娘を亡くすシングルマザーの森口悠子、そして単身赴任の夫を持ちいわば女手一つで息子を育て溺愛し、その息子直樹に殺される下村優子、そして息子を捨てて離婚し、研究者としての道を志す修哉の母八坂亜希子、妻と別れたあと修哉の父が再婚した継母です。これら4人の子どもに対する話し方、特に呼びかけの対称詞はそれぞれに特徴的で、親子の関係をよく反映しているようです。

森口悠子が直接に娘の愛美に話しかけているシーンは1場面しかありません。そこで彼女はキャラクターつきのポシェットを買ってと駄々をこねる娘を厳しく制止します。

(11)愛美:買ってよ、買ってよ、ポシェット買って。
   森口:ダメ。さっきトレーナー買ったでしょ。

ここで彼女は娘の名を呼ぶことはしませんが、このすぐ後、校内で娘が行方不明になったときには「愛美」と呼びながら探し回ります。独り親ながら頑張って子どもを育てようとする母の姿が見えるようです。教え子の生徒には「さん」「くん」づけですが、より近い関係として娘のことは呼び捨てにしています(緊急時ということももちろんあるでしょう)。

下村優子も夫が単身赴任中、直樹の姉である娘も家を離れて大学に行っていて、直樹と二人で暮らしています。彼女は直樹に過保護な育て方をしていて、勉強も部活動でもあまり成果をあげられず不登校になった息子を心配してはいますが、彼は本来できる子なのだーできないのは学校や教師、あるいは友人たちが悪い、と思っているようです。森口から娘の死に直樹が関わっていたことを言われても、息子に対して「悪い友達に騙されて手伝いをさせられて、かわいそう」という感想しか出てこず、森口を唖然とさせます。この母は直樹に直接に呼びかける時は「直くん」という愛称です。多分幼い頃からこのポジティブ・ポライトネスそのものという愛称で呼び、今も呼び続けているのです。
直樹が森口によってエイズに感染させられたかもしれない、と聞かされた優子は…自分のことは「お母さん」と言い、あくまでもいわば自分に都合がいいように直樹の行動を解釈します。

(12)優子:直くん、病院に行きましょ。
   直樹:別にいいよ。
   優子:なに言ってるの、直くんが死んじゃったらお母さんは…
   直樹:ぼくは人殺しだよ。
   優子:そんな、直くんはただお友達をかばって、あの子の死体を、
   直樹:死体じゃない、気を失っていただけなんだ。それをぼくがプールに落とした 
     から。
   優子:え?でもだって、それだってまさか生きてるなんて直くん、知らなかったん
     だから。
   直樹:違うんだよ、母さん。あの子は僕の目の前で目を覚ましたんだ、その子をぼ
     くは…

このあと、絶望した優子は息子を殺して自分も死のうと、包丁を持ち出し、逆上した息子に逆に刺殺されてしまうのです。

修哉の母亜希子は、幼い修哉(3、4歳ぐらいでしょうか)を置いて家を出ていきます。
その翌年、修哉の父は別の女性と結婚し、やがて子どもも生まれます。この3人について修哉は「バカはバカと結ばれバカな子を生む」とにべもない評価をしています。そしてこの継母のことば…

 (13)継母:パパと相談したんだけど、在庫置き場になっているあっちの家に修哉くん
   の勉強部屋を作ってあげようと思うの。赤ちゃんが泣くと勉強の邪魔になっちゃう
   でしょ。

あたかも修哉のためというような言い方で、義理の息子を体よく厄介払いしようとするこの女性の義理の息子への呼びかけは「修哉くん」といういわば学校用語的な、他人の子どもへの呼びかけと同じ、といえるものです。

さて、その息子を捨てながら、息子からは他者を傷つけてもその愛を得たいと思うほどに慕われる修哉の実母亜希子のことばもなかなかに興味深いものがあります。

(14)亜希子:あなたはとっても頭のいい子、あなたにはママの血が流れているんだも
      の。
         …………………………………………
   亜希子:なんでわかんないの!なんでこんなこともできないの!あんたさえいなけ
       れば…
         …………………………………………
   亜希子:これは全部ママに影響を与えたすばらしい本なの、将来絶対あなたの役に
      立つはず。あなたにはママと同じ血が流れているの。ママと同じ才能を受け
      継いでいるのよ。じゃあね(別れを告げ、出て行ってしまう)。

亜希子は、幼い息子に期待や希望を寄せていますが、同時に彼が自分の生き方の足を引っ張るような存在であることに苛立ちます。そして期待に添わない行動をとる幼い息子に罵倒を浴びせ、結局別れることになると、また自分の血が流れているから優秀だーとこれはまたすごい自信で、息子は結局このことばで呪縛されるかのように自滅的な道を歩むことになるわけですが…と、息子にたくさんの本だけを残して去っていきます。ここで亜希子は息子のことを「あなた」、苛立ち起こるときには「あんた」という代名詞で呼びます。一見、相手を自分から切り離して独立した人格として認め、対等に話しているかのようですが、相手の息子・修哉がまだ幼児であるということを考えると違和感を禁じえません。一方で自称は「わたし」ではなく「ママ」ですから、明らかに自分を修哉の母としての立場ととらえているわけで、野心ゆえに息子と向き合えず切り離しつつ、しかし縛られてもいる亜希子という人物の矛盾が表れているような呼称です。
なお、映画の最後のほうで森口悠子から修哉に、彼の母を装った電話がかかってくるというシーンがあります。

 (15)森口(電話の声):修ちゃん、ママですよ。ごめんね、今まで寂しい思いをさせ
      て。
    修哉:誰だ!
    森口(電話):ははっ(笑い声)、お久しぶりです。森口です。
      爆弾はわたしがお預かりしました。単純な知能が作り出した単純な仕掛けで
      解除するのは簡単でした。まあ、調子に乗ってウェブでペラペラしゃべるか
      ら。
    修哉:黙れ!
    森口:黙りません。あなたへの復讐の件ですが、たとえあなたを殺してもあなた
      は自分の命など少しも惜しくないようだし、殺す以外なにかいい方法がない
      かと、ずっとあなたのウェブをチェックしていました。

すでに北原美月を殺してしまった修哉は、始業式の日、選ばれて壇上で作文を読んだ後、演壇の下に隠した手製の爆弾によって会場にいる生徒や教師をも巻き込んで自爆しようと図るのですが、押した携帯電話のスイッチは作動せず、そこに森口からの電話がかかってくるというわけです。ここで森口は、修哉が母からは決して呼ばれることがなかった「修ちゃん」という愛称で呼びかけて修哉を驚かせます。もちろん、それは「ふり」ですから、そのあとの森口は、「わたし」「あなた」と修哉に話しかけています。まさにかつて幼い修哉に亜希子がしたように、丁寧(端正)ではあるけれど、自分から相手を切り離して独立と言えば聞こえはいいけれどむしろ孤立を感じさせるような呼称の使用だと思います。
このように、この映画、さりげなく、しかしかなり意図をもって登場人物間の呼称を設定しているのだと思われます。

なお、もう一つ。この映画には、首都圏方言ではもっとも一般的と考えられる自称「おれ」を使う男性が一人も出てきません。修哉は逆上して森口や美月を「おまえ」と呼びますが、彼も自称は「ぼく」です。ー桜宮先生や寺田先生、修哉の父はもしかすると違った場面では「おれ」の使用者であるかもしれないのですが、少なくともこの映画では「おれ」と話すような大人っぽい、男としての側面は見せていないわけです。これは現実の言語使用を如実に示したというよりは、男性不在の社会としてこの映画の世界を描き、それゆえにある種のいびつさやゆがみを強調した映画の意図があらわれたものとみることができるように思われます。




【参考資料】

共同通信社(2016)『記者ハンドブック 新聞用字用語集(第13版)』共同通信社

小林美恵子(2007) 授業談話データベースによる実態調査ー授業の発話の丁寧度につい
     てー『ことば』28号pp.41-52 現代日本語研究会

小林美恵子(2008-1) 授業談話データベースによる実態調査ー授業の構成要素と丁寧度
     ー紀要』pp.80-89東京都立国際高等学校

小林美恵子(2008-2) 授業談話データベースによる実態調査ー教師は生徒をどう呼ぶか
     ー『ことば』29号pp.54-72 現代日本語研究会

NHK 放送文化研究所編(2005)『NHK ことばのハンドブック(第2版)』NHK 出版

林みどり・大島デイヴィッド義和(2021) 付加的呼称詞「さん」「くん」の使用とジェ
     ンダー中立性―実態と規範をめぐって― 『ことば』42号pp.72ー89 現代日本
      語研究会

前田安正・関根健一・時田昌・小林肇・豊田順子(2020)『マスコミ用語担当者がつ
     くった 使える!用字用語辞典』三省堂

れいのるず・秋葉かつえ(2019) 明治俗語革命期の「僕」と「小生」 ―In Reference
        to the First Person Pronouns in Natsume Soseki’s Letters―『こと
      ば』40号 pp.178195 現代日本語研究会

Brown,P and Levinson,S. (1987) Politeness:Some universals in language usage.
     CUP.






2021年6月8日火曜日

『何者』にみる現代の若者のことば

 【こんな映画】

監督・脚本:三浦大輔  2016 108分

原作:朝井リョウ


出演:佐藤健(二宮拓人) 菅田将暉(神谷光太郎)田名部瑞月(有村架純)小早川理香(二階堂ふみ) 岡田将生(宮本隆良) 山田孝之(沢渡先輩)



  平成生まれの作家として初めて直木賞を受賞した朝井リョウ原作の映画化作品。
就職活動を通して自分が「何者」なのかを模索する5人の同じ大学の学生たちの物語です。
 二宮拓人は昨年の就活に失敗し、2年目に取り組む元演劇青年。彼とルームシェアをしている神谷光太郎はバンド活動にのめりこみ留年してしまいましたが、いよいよバンドも引退し就活を始めます。彼らの同級生・田名部瑞月は留学していましたが帰国後最上級学年を迎えて、同じく就活を始めます。その留学時代の友人小早川理香は、偶然拓人と光太郎が住むマンションの上階に住んでいました。瑞月に紹介されて、彼らは理香の部屋を拠点(本部)として就活に共同で取り組もうと約束します。理香の部屋には男友達の宮本隆良が同居していました。アート志向で自分には決められたルールに乗るだけの就活はなじまないと広言しながらも、焦りを隠せない隆良。
この5人に、拓人の演劇部とアルバイト先の先輩でもある理系の大学院生沢渡や、バイト先の後輩女子学生なども加えて、就職に共通する不安を抱え、また、それぞれに少し違った意識も持ちながら悩みを分かち合ったりぶつけあったりSNSに吐き出しながら就活に励む学生たちの様子や、その中で人間関係も徐々に変化していく有様が描かれます。

三浦大輔監督は1975年生まれ。早稲田大学演劇倶楽部を母体にした演劇ユニット・ポツドールを結成(『何者』の舞台「御山大」はそうしてみると早稲田大学がモデルでしょうか。ちなみに原作者朝井リョウも早稲田大学の出身です)。『ボーイズ・オン・ザ・ラン』『愛の渦』などの映画でも高い評価を得ている演劇界の鬼才です。『何者』以後、自身の演劇作品を映画化した『裏切りの街』(2016)、『娼年』(2018石田衣良原作)などがあります。


【ことばに関する着眼点】

同年代の学生男女の会話中心で構成されている作品ですので、現代の若者たちの親しい会話のことばの特徴がよくあらわれていると言っていいでしょう。初対面の挨拶から親しくなっていく過程でのことば、互いの呼び方、男女それぞれのことばの特徴、先輩に対することばの選び方など、さまざまな様相が観察できます。なかでも特筆すべきは、この映画では文末形式の使われ方の男女差がほとんどないということです。
明治期以後、日本語の女性のことばには「~わ」「~のよ」「~かしら」など特徴的な文末形式を含む女性専用形式があるとされてきました。しかし1980年代ごろから若い女性を中心に実際の会話(自然談話)の中ではこのような文末形式(特に「わ」「かしら」など)が使われることが少なくなってきたことが観察されます。とはいえ小説や映画などのセリフでは現代にいたるまで「役割語」としてこのような文末形式は生きています。ただ、小説や映画でも2000年代に入り、若い世代中心にこのような文末形式を使う登場人物は減っています。実はこの映画の女性たちは若い世代ということもありますし、親しい友人どうしの会話ということもあるのでしょうが、いわゆる「女性文末形式」と言われる「わ」「かしら」などの文末をまったく使っていません。その意味で日本の女性のことばの中性化を示すエポック的な作品の一つと言えるのではないかと思います。
そんなことを頭に置いて、作品の会話を見ていきましょう。

拓人の会話ー同級生・女性に対してー

1.瑞月:拓人君。
  拓人:おお、瑞月さん、来てたんだ。
  瑞月:久しぶり。
  拓人:久しぶり。
  瑞月:帰国してすぐ連絡しようと思ったんだけどさ、なんかバタバタしちゃってて。
  拓人:ああ。スーツ、もう買ったんだ。
  瑞月:うん。拓人君も就活始めたんだね。
  拓人:あの、スーツ、すごい似合ってる。
  瑞月:光太郎さー、ほんとに歌うまくなったよね。拓人君の舞台もまた見たかったな。
    

就活を始めた拓人と、留学から帰ったばかりの瑞月が、それぞれ光太郎の引退ライブを見に行って久しぶりに再会する場面です。瑞月からは「拓人君」拓人からは「瑞月さん」と「くん」「さん」の呼び方の違い、「おお」「ああ」などの感嘆詞を使う拓人、瑞月が終助詞「(よ)ね」「な」などを使うのに対し、拓人は終助詞無しの言い切りの形が目立つことなど、多少の差異はあるのですが、いわゆる「女性文末形式(わ・かしら)」や「男性文末形式(ぞ・ぜ)」が使われることはなく、あえて言えば話し手を交換したとしても、男女差ではなく「個性差」として、それほど違和感は感じられないような話し方を二人ともしています。

「くん」「さん」については、社会人としては「さん」が上下どちらにも使える敬称であるのに対し、「くん」は上位者から下位者にしか使えません。ただし日本の小中学校〜高校ぐらいまでは、しばしば教師が児童・生徒を呼んだり、同級生間でよびあうときに男子には「くん」をつけ、女子には「さん」をつけるということが行われてきました。女子が男子を「くん」付けで呼んだとしても、別に下に見ているというわけではありません。
それほど親しくない、単に教室内で同席するというような場合「名字+さん/くん」が使われることもありますが、上記の拓人と瑞月は「名前(ファースト・ネーム)+さん/くん」で呼び合っていて、これは名字だけの関係よりは少し親しいー大学に入って知り合った二人ですが四年間の友人関係によって大分親しくなった…、でも瑞月が「光太郎」と呼び捨てにするほどには二人は近い関係にはないことがわかります。拓人は実は瑞月を片思い、しかし光太郎と瑞月はかつて恋人どうしとして付き合っていたという、微妙な関係が瑞月の二人に対する呼び方の差に表れています。このように、「くん」「さん」で始まった教室内の関係が、親しさの度合いによって名字から名前に、呼び捨てにと変化していくのはよくあることです。
また、教室内の「さん」「くん」をジェンダー的にあえて差異化する言い方として否定し、例えば「さん」で統一しようなどという学校・教師の考え方も存在します。
大学生ともなると、先生は学生を「大人」として見ますし、特に最近では学生を男女で区別すること自体が問題とされることもありますので、先生が男子学生を「~くん」女子学生を「~さん」と呼び分けることはなくなるように思われます。
『何者』では、特に異性からや、それほど親しくない同性からの場合、男性を「名前くん」と呼び、女性を「名前さん」と呼んでいますが、これは高校時代までの習慣が残っているのだと考えられます。親しい同性どうしは女性も男性も「呼び捨て」が基本になっているようですが、恋人どうしのような、より親しい関係の間では男女ともに呼び捨てにしあうこともあるようですし、また、後から出てくる光太郎のように「名前ちゃん」などと呼ぶこともあります。


拓人と光太郎

同級生でも、より親しい男性どうしの場合はどのような話し方がされているでしょうか。拓人が家に戻ると、同居する光太郎は就活に備えて、今までの金髪を黒く染めたところでした。

2.拓人:いや、お前
  光太郎:どう? 似合うっしょ
  拓人:うん、まあ。
  光太郎:いやー、すげえ 久しぶりだわ、黒髪にしたの。
  拓人:つか、お前、家で髪染めるって、高校生かよ
    光太郎:いや、だって金もったいねえ じゃん。とにかくもう、引退ライブ終わったし。
    これから就活始めっから、いろいろ教えてくれよ、拓人先輩!
  拓人:ああ。
  光太郎:飯食った
    拓人:ああ、まかない食った
  光太郎:ああ、おれ、食欲ねえな。打ち上げで飲みすぎた。
         ‥………
  光太郎:そういえば、お前、瑞月に会った?
  拓人:え? ああ、きのうお前のライブで。
    光太郎:あいつ、スーツで来やがってな。もう、ライブ中は就活のこと忘れたかったの
       に。 ステージから見えて萎えたわ
  拓人:いや、おれもスーツだったけど。
  光太郎:拓人はいい

二人はたがいに「おれ」と自称し、「お前」と呼びあいます。光太郎はかなり自由自在な話し方という感じで、「~っしょ?」(いわゆる「ス体」の問いかけ)、「すげえ」「もったいねえ」(「oi」「ai」の長音化)「始めっから」(「る」の促音化)「来やがる」(いわゆる「卑罵語」で、さげすんだり罵ることば)や、「わ」「じゃん」「の」のような終助詞も使っています。拓人の「~かよ」という言い方、光太郎の「食った?」に答えて「食った」と「食べる」でなく「食う」を使う、また光太郎が「教えてくれよ」と相手に依頼する言い方なども、少なくともこの映画では、親しい男性どうしだからこそ出てくる言い方といえるでしょう。瑞月や理香の女性どうしの会話には出てきません。

この場面で光太郎が2度にわたって言う終助詞「わ」は実は下降調のイントネーションで発話されています。いわゆる女性文末詞として上昇調で発話される「わ」とは明らかに違うもので、この映画には10例ほど現れますが、いずれも光太郎、拓人、隆良と男性によって使われています。女性の「わ」使用は上昇調、下降調にかかわらず1例も現れません。「わ」を使わず同じような気持ちを表すとすれば、「~(だ)よ/な」などを使うのが普通かと考えられますが、1の瑞月が「歌うまくなったよね」「見たかったな」と言っているように、女性の場合も「わ」を使わない言い方をしているのです。

女性専用形式「のよ」

実はこの映画に現れる「女性専用形式」といえる文末は次の「のよ」1例だけで、男性である光太郎によって使われたものです。

3.光太郎:拓人! 俺とルームシェア、しねえ?
  拓人:声、でけーよ。つか、しねーよ。
  光太郎:あのさ、あのさ、あのさ、あのさ、あの、俺はバンドで、おまえ演劇だろ?
    ほら、俺ら、あの、夜型でさ、生活のリズムも似てるし、二人で家賃割ったら安く
    つくんだよ。
  拓人:そりゃ、そうだろ。
  光太郎:ねえー、アタシたち、うまくいくと思うのよ
  拓人:やめろよ。

これは、まだ1年生だったときに、光太郎が拓人にルームシェアを提案するシーンですが、冷たく断ろうとする拓人に、「アタシ」という自称詞も使いながら、あたかも女性が甘えるような調子を装って提案する光太郎です。こうすることで、提案の「まじめさ」を緩和して、ふざけているようでありながら、相手の懐に飛び込んでしまう光太郎の「話術」がすでに見えています。「やめろよ」と言いながら、拓人は結局光太郎と同室で学生生活を送ることになるわけです。

再びー親しい同級生の会話

今ままであげてきたのは、比較的親しい男女、または男同士の1対1の会話でした。ではこれらが入り混じって複数が会話をすると、どんな感じでしょうか。

4.  瑞月:理香、連れてきたよ。
  理香:あ、入って待ってて。
  拓人・光太郎:お邪魔しまーす。
  光太郎:拓人、うちの間取りと同じだよ。
  拓人:ああ、当たり前じゃね?
  光太郎:つか、すげーおしゃれじゃね?
  理香:お待たせ―。あ、小早川理香です。よろしくお願いします。
  光太郎:神谷光太郎です。よろしくお願いします。
  拓人:二宮拓人でーす。
              ・・・・・・・・・・・
5.光太郎:プリンター! あ、ちょっと借りに来ちゃっていいっすか?うちのぶっこわれ
    たまんまで。
  理香:全然、いいよ。あ、じゃここ就活対策本部にしようよ。
  光太郎:お。そうしよ、そうしよ。ちょっとこれからよろしくお願いします、本部長!
  理香:こちらこそよろしくお願いします。
  光太郎:お願いします。就活という荒波にお互い立ち向かっていきましょう。
  理香:うん。イェーイ(光太郎も声を合わせる)
  光太郎:やばい、すげー心強いわ。
  理香:いろんな業界に興味ある人がいた方が情報収集できるしね。
  光太郎:そっかー。

4.では瑞月が光太郎と拓人を理香の部屋に連れてきて引き合わせます。ここでは瑞月と理香、光太郎と拓人は互いにはくだけた調子の普通体で話していますが、互いに初対面の相手とは丁寧体で挨拶をしていることがわかります。部屋の奥から出てきた理香が「お待たせ―」といったのは友人の瑞月に対してで、そこで初対面の男性二人に会った理香はすぐに丁寧体に切り替えるわけです。これに対して光太郎・拓人もきちんと丁寧体で答えています。

5.はそのあとすぐに続く場面で、光太郎のスピーチ・スタイル転換の絶妙さが見える場面です。理香の部屋のプリンタを目ざとく見つけた光太郎は「借りにきちゃっていいっすか」と「借りに来て(お借りして)いいですか」よりは少しくだけた軽い調子のいい方で理香にお願いをします。ここはひょっとしてプリンタを貸すことを負担に思うかもしれない理香に軽い言い方で大したことではないような頼み方をすることによって負担を減らしてYes・Noにかかわらず答えやすくしているとみることができます(ここに表れる「ッス」については後ほど詳しく検討してみましょう)。幸いにも理香は「全然いいよ」と若い人らしい、共感も示す表現で答え「ここを就活本部にしようよ」と普通体の軽い言い方で提案します。光太郎はそれに対し「そうしよ、そうしよ」と軽い調子で答えますが、それにとどまらず「よろしくお願いします」と改まった形式で挨拶、しかも理香を「本部長」と冗談めかしてではあるが立てる。それに理香が同じく丁寧体で答えると、再度「お願いします、就職という荒波に立ち向かってきましょう」とすこし大げさともいえる言い方で返答をする、と、こんな言い方を経て理香は光太郎に心を許したようで、この後の会話は二人とも普通体のくだけた調子で話を進めています。
もしここで光太郎が「そうしよ、そうしよ」だけで話を止めたなら、理香は、初対面なのにずいぶん遠慮のない調子で他人の部屋を使おうとすると、不満や批判を感じたかもしれません。光太郎の丁寧体と普通体のスイッチはそのような相手の不満をおさえ、改まりと気軽さとの間を自在に行ったり来たりしているものと言えるでしょう。「やばい、すげー心強いわ」と若い人(男性?)がよく使う「やばい」や「すげー」、そして先にも述べた下降調の「わ」を使う段階で、光太郎は理香を親しい友達として遇し、お互いの気を許しあった会話ができるわけです。

一方の拓人はどうでしょうか。
理香の使う就活のための練習用エントリーシートに、光太郎が興味を示します。

6 光太郎:え?何?これ?
  理香:練習用のエントリーシート。どこでも聞かれそうなことがまとめられてて便利だ
   よ。
  光太郎:へーっ?でも、おれバンドしかして来なかったしな。書くことなんてねーよ。
  理香:そんなことないでしょ。ねえ?
  瑞月:うん。
  光太郎:いやいや、そんな英語ペラペラみたいなさ、強いカード持ってる人にいわれたく
          ないの。 
    理香:えー?(笑う)いやいやいやいや…
  拓人:まあ、でもお前が持っているカードを強いカードに見せることはできんじゃない
   の?
  光太郎:え?どういうこと?
  拓人:就活ってトランプのダウトみたいなもんでさ、ダウトの時にエースをキングだって
   いうみたいにどんなカードでも裏返して差し出すわけでしょ。
  光太郎:うん。
  拓人:つまりいくらでも嘘はつけるわけでしょ。
  光太郎:嘘?そういうもん?
  拓人:まあ、もちろん嘘ってばれたらおしまいだけどな。
  光太郎:ああ。
  瑞月:拓人君の分析って説得力があるよね。
  光太郎:うん。
  理香:まあ、戦い方は人それぞれだよね。
  光太郎:やあ、なんか、おれ、今日来れてラッキーだな。なんか、これでやっと本腰入れ
       て就活始められっかも
    理香:あ、おなかすいてない?なんか作ろっか?
  瑞月:いいよ、いいよ。そんなに気ー、使わなくても。
  光太郎:お願いしまーす!
  理香:はーい。 

光太郎は、理香のエントリーシートに興味を示しながらも、自分にはそこに書けるような強い「カード」はない、といいます。これは単純な感想であるとともに理香に対する賞賛にもなっているわけですが、拓人はあたかも光太郎に助言をするような姿勢で、エントリーシートには嘘が書ける=信用できるものではないと、理香の提示したエントリーシートそのものや、ひょっとすると理香の英語能力さえをも否定するような発言をしています。これに対してもともと親しい光太郎と瑞月はそれぞれに感心するのですが、理香はいい気持ではありません。ただ彼女も拓人に面と向かって反発するのではなく「戦い方は人それぞれ」と大変婉曲的な反論をしています。この場面には若い初対面の二人の互いへの反感の示し方が現れています。二人はこのあとも、正面から対決することはありませんが、婉曲的な表現で反発しあい、また拓人は裏アカウントのツイッターで理香や他の友人への批判を書き込み、それを知った理香との間で最後の対決をするという展開になっていきます。
なお、理香の「戦い方は人それぞれ」発言のあとの光太郎の無邪気とも言えそうでいながら拓人、理香双方をフォローするような発話、理香の、この話はせず、しかし会話を主導しようとする話題転換、素直・率直だけれども理香の心情を読み取ることはできない瑞月、さらに図々しそうにふるまいながら理香の心情に飛び込んで寄り添う光太郎と、三者の様相がよく表れている会話になっています。この場でも拓人は自分の言いたいことだけ言い理香に婉曲な反発をされた後は、発言することができず会話の流れから取り残されてしまうのです。


先輩との会話ー「ス体」の出現

理系の大学院生沢渡は、演劇部での先輩でバイト先も一緒と拓人にとっては、ある意味では光太郎よりも親しいともいえる頼りにもしている人物です。ある日、拓人は沢渡の部屋で、理香に対しては否定的だったエントリーシートを書いています。

7. 沢渡:来週からまた研究室、こもることになってさ、しばらくバイト休みにしてもらっ
   た。
  拓人:へー、先輩、忙しいっすね
  沢渡:うん、また帰れない日が続くよ。
  拓人:ああ、大変だな。
  沢渡:お前、思ってねえだろ。
  拓人:いや、思ってますよ。(沢渡がカップ麺を渡す)あ、すいません。あざっす
  沢渡:なに書いてんの?
  拓人:ああ、エントリーシートです。
  沢渡:書きなれてんだろ、んなの。どんなこと書いてんの? 見せろよ。
  拓人:それは、マジ、ちょっと勘弁してください。
  沢渡:そんな見られたくねえんだったら自分ちで書けよ。

ここでは沢渡は普通体基調で「思ってねえだろ」「んなの(そんなの)」「書いてんの?」「見られたくねえんだったら」のような音変化や脱落のある形、「見せろよ」「書けよ」のような命令形(+よ)、そして対称詞「お前」を使い、上から下に対するくだけた親しい調子で話しています。
それに対して拓人は基本的に丁寧体「です・ます」で答えています。「~てください」「すいません」など比較的丁寧な依頼や挨拶語も出てきますし、呼びかけは「先輩」と地位名称です。1か所「ああ、大変だな」と普通体になったところがありますが、これは先輩の多忙に思わず出た内面吐露、つまり自発的な感想で独り言に近いと言ってもいいでしょう。先輩に対してはどんなに親しくても丁寧体を使うというのが、学生どうし(職場でもそうかもしれません)の一つのルールになっています。
ただし、ここで気づくのは「忙しいっすね」「あざっす(ありがとうございます)」、それに「マジ」というような「丁寧体」というには少し語弊があるようなくだけた言い方が、丁寧な言い方と併用される形で使われていることです。

中村桃子(2020)はまさに『新敬語「マジヤバいっす」社会言語学の視点から』という書名で、このような「~っす(ス)」を含む話体を「ス体」と名づけて考察しています。
中村(2020)は神奈川のある大学の同じ体育会系クラブに属している1年生2人(後輩)と2年生1人(先輩)の会話をビデオ録画し観察しました。3人のうち、先輩が決して「ス」を使わず、「です・ます」も使わないこと、後輩どうしも「ス」「です・ます」を使わず、後輩から先輩に対しては「ス」「です・ます」が使われていることから、「ス」は「です・ます」と同様に丁寧ー話し相手に対して敬意を表する言い方として使われていると言っています。「「ス体」は「です・ます」の丁寧さを受け継ぎながら「です・ます」だと遠すぎる相手との距離を少し短くする、つまり〈親しさ〉も同時に表現する。「ス体」の主要な働きの一つは〈親しい丁寧さ〉を表現することだ」(中村2020・P59)とのことです。後輩は先輩に対して丁寧体を使うのが原則ですが、実際にこの調査では、「主張をやわらげる」「同意してつながりを示す」「聞き手を選択する=複数の相手がいる時に、今の自分の話の相手は先輩なのだと示す」「仲間意識を表明する」ときなどに「です・ます」よりは「ス」が使われることが多いとしています。

7の場面でも、後輩の拓人は、先輩の忙しさを想像し同情を示す(=仲間意識の表明といえるでしょうか)ときは「ス」、先輩に「思ってねえだろ」と言われて相手のことばを否定する(=形式的には相手の体面を損なうことになる)ときはきちんと「ます」を使って相手との距離をとります。そして先輩が出してくれたカップ麺への親しみを込めた感謝では「あざっす」と、拓人なりの相手との距離や親しみ感の調整をしているようです。

なお、中村(2020:pp56)では同じ調査の中で、ふだんは「ス体」を多用している後輩たちが、先輩から情報を求める質問をされたときには「~です」と答えている例をあげ、先輩が「知らないこと」を後輩に聞くこと自体が先輩の体面が保てないことなので、後輩は先輩の体面を保つためによりくだけた「ス」ではなく「です」を使って丁寧に答えたのだとします。
実はまさに同じことが、7にも起こっています。沢渡に「名に書いてんの?」と聞かれた拓人は「エントリーシートです」と答えます。「知らないから後輩(目下)に聞く」こと自体が先輩としての体面が保たれないことであると(無意識に)感じた拓人はここでは、先輩の体面を保つためにきちんと「です」を使っていると考えることができます。

ところで中村(2020)は読売新聞社の投稿サイト『発言小町』に投稿された「ス体」に関する言説を観察し、このような話体にたいする世間的な評価を分析しています。それによれば、「ス体」に関するこのサイトの投稿は大きく2つに分けられます。一つは敬語の規範に基づいて「「ス」は丁寧語ではない」とする批判的な評価(マジメ系レス)、もう一つは「ス」を投稿文中にも使うなどして「あざけり語」として機能させることによりパロディ化したりコミカルにして笑わせるような新しい意味を付加する(オモシロ系レス)ものですが、後者も含め、90%までが、「ス」は丁寧語ではないとしていたとのことです。否定的にとらえられるにしろ、面白い新しいものとしてとらえられるにしろ、この語(話体)が今までにない「新語」としてある人々に使われ、新語や流行語は丁寧ではない乱れた言葉として批判否定されるという傾向がここにも現れているのかもしれません。

光太郎・隆良の「ス体」

男子学生が先輩に向かってよく使う「ス体」ですが、拓人以外の登場人物はどんなふうに使っているでしょうか。
5.では、光太郎が理香のプリンタを借りようとして「借りにきちゃったりしてもいいすか?」と頼むシーンを紹介しましたが、ほかに光太郎が「ス体」を使うのは、8.9.などのように、就活を一足先に始めている拓人に対して助言を求める場面で、拓人を、半分ふざけるように親しみをこめて「師匠」「兄さん」などと呼びます。そんなときにこの「ス体」もいっしょに現れています。

8 拓人:(終活に関する情報サイトを検索して)多分、このサイトが一番充実してるかな。
   光太郎:フーン、さすがっすね、拓人師匠。

9 光太郎:つか、拓人はいいの?  俺だって、あの、(ウェブテストを)手伝うのに。
  拓人:ああ、まあ、いいよ。俺受けるところ、ウェブテストってさ、あんま重視されて
   ないから。
  光太郎:さすがっすね、拓人兄さん。

ほかに、光太郎が拓人のバイト先のカフェで、拓人の親しい先輩である沢渡に会うシーン10がありますが、ここで光太郎は、後半初対面の後輩女子学生が登場して、出版社に就職が決まった光太郎を賞賛する、その中で沢渡も加わった会話に答える1か所以外では「ス体」を使いません。なお、実はこの後輩は「ス体」使用者というより「多用者」。これについては後述しますが、光太郎は女子学生とのそのやりとりに「ス体」は使わず普通体で答えています。ただ、最後に沢渡にも褒められて謙遜するところで「ス」を使いますが、これは次に続く謙遜が先輩のホメを否定することになる、その否定の強さを避けるために、先輩がホメとして言った「狭き門(をよく通った)」を(マジメにではなく)軽く肯定するために「です」を避けたと見ることができそうです。あるいは、それまでの女子学生の口調の影響を受けたということもあるかもしれません。

10 光太郎:もしかして、サワ先輩ですか?
  沢渡:あ、はい。
  光太郎:いや、もう、いろんなことまとめて、今日はもうサワ先輩に俺がお礼を言おう
   と思いまして。
  拓人:なんで、お前がお礼を言うんだよ。
  光太郎:いや、いいから、いいから。ほんと、こいつがいつもお世話になってます。
  沢渡:いやいやいや。
  光太郎:いや、ほんとに、すいません。(拓人に向かって)お前も、ほら、言え。
          ・・・・・・・(中略)・・・・・・・・
  沢渡:ま、でもやっぱり狭き門だよね。出版社って。
  光太郎:ままま、そうなんけどね。いや、でも全然大したことない。
  後輩女子学生:いやいやいやいや、すごいです!

いっぽう、拓人と一緒にいた隆良が、偶然沢渡先輩に出会うシーンは次のようなものです。

11 隆良:(拓人にとも沢渡にともなく)だれ?
  沢渡:あ、沢渡です。理工学部の院の2年。
  隆良:あ、理系の院生なんね。宮本隆良です。

目の前にいる初対面の相手に対して「だれ?」と問いかけるのもかなり失礼な態度と思われますが、この隆良という青年は、他の4人とはちょっと一線を画して、就職には自分は向かない、フリーランスでアート系の仕事をしたいと望んでいます。拓人は「大したことない人脈をひけらかす」「自分が断っている途中のことをやたらにアピールしたがる」として隆良にいい感じをもっていません。実際にこの初対面場面では、年長(大学では学部は違うが先輩になる)の沢渡がきちんと自己紹介をしたのに、自分が名乗るより先に(目上の)相手の立場を確認するというのは相当失礼な態度だといえます。ここで「ス体」を使うというのはさらに失礼な感じもします。ただ、隆良の立場からすると「~なんですね」と言うとすれば、かしこまって大真面目に相手の発言を確認するということで、より相手の体面を傷つける行為として意識された可能性もあるかもしれません。
とはいえ、このような使い方が、『発言小町』(中村2020)に紹介された評価(否定するにせよ面白がるにせよ「丁寧」とは言えない)につながっているとは言えそうです。

『何者』の女性の「ス体」

『何者』の女性たち、瑞月と理香はこの映画に描かれたシーンではまったく「ス体」を使っていませんが、拓人のアルバイト先の同僚である同じ大学の後輩女子学生は「ス体」をよく使います。

12 女子学生:拓人さんと沢渡さんって、演劇?まだやってるんでしたっけ?
  沢渡:いや、もうとっくに引退したよ。
  女子学生:結局、わたし、演劇? 一回も見に行けなかったんです。ごめんなさい。
  拓人:いや、別にいいよ。学生時代の趣味みたいなもんだったし。
  女子学生:あれ、なんでしたっけ?前に誘ってくれた劇のタイトル。
  沢渡:『彼女の瞳に映る紫色を我々の多くは知らない』
  女子学生:超かっこいいすよね。メッチャ泣けそう。だれが考えたんです?その話、セ
    ンスやばいっすよね

13 女子学生:あの、すみません。もしかしてオーバー・ミュージック(バンド名)のボー
    カルのかたですか?
  光太郎:はい、ボーカルのかたです。
  女子学生:あたし、御山大の2年なんですけど、ライブ結構通ってて。
  光太郎:おお、俺バンドやってて、こんなん初めてだ。
  女子学生:ありがとうございます。
  光太郎:ありがと、ありがと、ありがと。
  女子学生:バンドずっと続けるんですか?
  光太郎:ああ、もうね、引退したんだよ。あの、就職が決まって。帝国出版に。
  女子学生:マジっすか! 超有名なとこじゃないすか
  光太郎:が、第一志望だったんだけれども。まあ、あっさり落ちまして、俺が行くのは
    総文書院っていう中規模出版。
  沢渡:でも、そこってけっこうおもしろい本出してるよね。
  光太郎:そうなんですよ。
  女子学生:でも、出版社に内定ってすごくないっすか?倍率メッチャ高いですよね。
  光太郎:いやいや、もう大したことはないよ。1000倍ぐらいだよ。
  女子学生:メッチャ高いじゃないっすか
  光太郎:冗談、冗談、冗談。
  沢渡:ま、でもやっぱり狭き門だよね、出版社って。
  光太郎:ままま、そうなんすけどね。いや、でも全然大したことない。
  女子学生:いやいやいや、すごいです。
 
この女子学生は「超」とか「メッチャ」、「マジ」、「ヤバい」など、現代の若者が驚きやほめ、程度の高さを表すのに使う言葉を駆使して、拓人や沢渡の演劇(の題名)をほめ、また、光太郎の就職を賞賛します。ここで気づくのは、彼女が「ス体」を使っているのが、いずれもいわば相手を驚きをこめて賞賛することばであり、しかも「~か」「~よね」などが後続しているーつまり断定的に賞賛するというより、賞賛する相手を意識して呼びかけるような文脈であることです。
例えば、12.「(演劇を)見に行けなかったんです」13.「あたし、御山大の2年なんです」のように自分のことを語る場合、また、12.「誰が考えたんです?」13.「バンドずっと続けるんですか?」のように相手自身のことについて何らかの情報を求める場合には「ス体」は使われません。13.で「倍率メッチャ高いですよね」というのは倍率の客観的な高さについての相手への確認ですが、「1000倍くらい」と答えられて「メッチャ高いじゃないっすか」というのは相手の返答を聞いたうえでの驚きや、それをくぐりぬけた相手へのほめになっているのです。
人をほめるということはプラスの評価査定するということです。実は自分よりも目下・格下と思っているような相手から評価・査定されるというのは必ずしもうれしいこととはいえず、ほめられたとしても対面を傷つけられたと感じられる場合もあります。そこでほめる側としては、主張をやわらげ、先輩を先輩として立てながら同時に親しみをこめ、評価することで相手の体面を傷つけるような表現を避けて「ス体」を選んでいる可能性があります。
初対面の先輩にもバンドファンという立場でいわばなれなれしく話しかけてくるような活発な感じのこの女性も、案外神経の行き届いた「ス体」と「です・ます」の使い分けをしているわけです。

このような「ス体」の使い方は別に女性に限ったことではなく、例えば8.9.の光太郎の「さすがっすね」などもまさにそういう使い方です。8.9.の光太郎の相手は同級生・ルームメイトでもある拓人で、本来丁寧体を使って話す必要がある相手ではありません。しかし、ここでもし光太郎が「さすがだなあ、拓人」などと言ったとすると、上から目線のほめことばというより評価になってしまい、ほめたとしてもむしろ相手に不快感を感じさせ失礼なヤツだと思われる可能性もあります。そこで光太郎は(あくまでもふざけてではありますが)拓人を「師匠」とか「兄さん」と呼んで自分の立場を下げ、そこから「ス体」を使う軽い親しみをこめて賞賛評価をしているのです。

「ス体」は男性にも女性にも使われることがわかりました。しかし『何者』の中でおもな女性主人公である瑞月や理香には「ス体」は現れません。これはどう考えるべきでしょうか。

実は中村(2020)はTVCMに現れる「ス体」を観察し、このような話体を用いるキャラクターについても考えています。それによれば、CMに登場する男性キャラクターで「ス体」を使うのは伝統的な「男らしさ」に縛られず、それを軽々と乗り越えるような人物(や鬼)であり、そこで表されるのは伝統的な男らしさを是とする中年からから見て理解のできないような若い男性(後輩)の<丁寧さ>よりは<軽さ>を示すような「相手への意識のなさ」だといいます。そしてこのようなキャラクターがCMの中で「変人」として描かれることにより、そのような新しい男性像が提示されるとともに、「ス体」などは理解できない(使わない)伝統的な男性像も対比されていまだきちんと主張されているというのです。

いっぽう、CMには「ス体」を使う女性たちも登場しますが、こちらも従来の「女性らしい」話しことばでは物足りない女性像、特に女性の目から見ても好ましい女性の姿として描かれ、男性の場合よりもさらにそのキャラクター性が強調される。つまり男性の場合、若い男性が一般的に「ス体」を使うことが多いのに対し、女性の場合は使う女性と使わない女性がはっきりとキャラクターに相応して分かれるー使うキャラクターは伝統的な女性らしさの枠を超えて自由な、女性から見て好ましい女性像である、ということになるというのです(中村2020:5章・6章より要約)。

これにあてはめて考えてみると、後輩女子学生の自由なキャラクターに対して、瑞月や理香は伝統的で自由ではないということになってしまいます。しかし、先にも見た通り、「ス体」が使われるのは後輩から先輩(または先輩、兄、師匠などに相手を模した場合)に限られています。瑞月や理香はこの映画の中では先輩と話す場面はありませんし、彼女たちは光太郎のように自分を後輩や異性に模して話すなどということはしませんので「ス体」は現れないと考えるのが自然だとも思われます。「ス体」を使う後輩女子学生が女性としては特別自由な好ましい女性像であるとまで見る必要もないでしょう。場面や相手によっては瑞月や理香も「ス体」を使う会話をする可能性もないとは言えないでしょう。
ただ、就活という事業に立ち向かうためには自身の自由さを犠牲にしなくてはならないというのは男女に限らず、この映画の登場人物の姿であるのは確かである、その意味で就活期を迎えた瑞月や理香のことばが「おとなしくなる」という側面はあるのかもしれません。
これについてはもう少し大勢の若い女性の先輩格の相手に対する話しことばを見てみたいところです。

若者ことば、といえるかどうか…新語の発生

「ス体」もそうですが、今まで上げてきたセリフの中には中高年はあまり使いそうもない、いわば若者ことばともいえそうな表現がたくさん出てきました。たとえば、2.4.の光太郎の「すごい(スゲー)ひさしぶり」「すごい(スゲー)おしゃれ」「萎えた」、拓人の文頭に出てくる「つか」、これは他の場面では光太郎もよく使います。理香の5.「全然いいよ」、光太郎の5.「ヤバい、スゲー心強いわ」、7.拓人の「あざっす」「マジ」、12.女子学生の「超」「メッチャ」「センス、ヤバい」、この女子学生は13.でも「マジっすか」と言い「メッチャ」を連発しています。9.拓人の「あんま(あまり)重視されてない」という音の追加・脱落なども。最後にこれらの言い方について少し整理して考えてみたいと思います。14~35は『何者』の若者たちが使っている「若者らしい」ことばを目につくままに拾ってみたものです。
18拓人、23、31光太郎、そして13女子学生の「マジ」、同じ13の女子学生、17拓人、22、25、30などで光太郎が「激やば」「やばくね?」などの様々なバリエーションも含めよく使っている「やばい」、文末詞では19、25、32の光太郎、28隆良、33拓人、そして34理香と女性も含め多くの人が使っている「じゃん」などは男女にかかわらず比較的よく用いられ、「若者らしい」感じを与えることばといっていいでしょう。

14:拓人:あの、スーツすごい似合ってる。
15:拓人:いやー、先輩はうらやましいっすよ。院の推薦枠で速攻内定ゲットっすもんね。 
16.拓人:さみー(寒い)よな、そういうの。ラインでやってって話でしょ。
17. 拓人:やべーな、あ、あの。まあ、人気企業だからな。
  光太郎:すげー、人。
18.瑞月:あたしもびっくりしちゃった。もう、ほんと偶然友だちが上の階に住んでて。
   拓人:マ ジで
19. 光太郎:なに作るの?
  理香:うーん、あ、豚キムチとかは?
  光太郎:全然あり
  理香:じゃあ、マヨネーズがあるから、豚キムチマヨ。
  光太郎:うわ、何、それ。最高じゃん! ありがとう。
20.光太郎:理香ちゃんはさ、どんな所に行きたいの?
  理香:うーん、やっぱり語学力を生かせるところに行きたいかな
     ・・・・・・・・(中略)・・・・・・
  拓人:じゃあ、あれだ、大企業志向ではない感じだ。
  理香:会社の理念と自分の考えがあっていることのほうが大事かな
     ・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・
  瑞月:あたしはやっぱり会社の知名度気にしちゃうかも。だって何があるかわかんない
     し、安定を求めちゃうかな
21.瑞月:出た、拓人君の分析。ちょっと聞かして
  拓人:まあ、勘つーことで。
22. 光太郎:(音楽を)かっこいいんだよ。これ、激やば
23.光太郎:(雨に濡れた洗濯物を取り込みながら)うわ、やばマジか

24.光太郎:お、やべー、非通知だ。うわ、ぜってー面接の結果じゃん
25.拓人:倍率、半端ないしね。
26. 拓人:あいつら、それがさむいってわかってないんですよね。想像力がないっつーか
27. 隆良:向こうに合わせてやっても作品の価値が落ちるだけじゃん
28.光太郎:もう最終面接にいるみんながさ、行きたくないのバレバレで、もうめちゃくち
  おかしかったんだよね。
39. 光太郎:メアドでツィッターのアカウント検索するやつ、あれヤバくね?だって、俺だ
  ったらゼッタイやだもん、OB訪問してきた子がさ、ツィッターで話しかけてきたら。
30. 理香:今日のグルディス、拓人君一緒だったの。
  光太郎:え?マジで。うわ、そんな気まずいことあんだ
31.光太郎:それでは内定を祝しまして乾杯!いやー、めでたいめでたい。
  拓人:つーか、なんで祝賀会がおれのバイト先なんだよ。
  光太郎:いいじゃんつか、お前がこんなおしゃれなとこでバイトしてるとはなあ。
32. 拓人:理香さんだって同じじゃん
33. 理香:そんな人どこの会社でも欲しがるわけないじゃん
34. 隆良:(携帯電話は)コンビニのトイレにおきっぱだったよ。
35. 瑞月:拓人君の舞台、すごい面白かったもん。

【音の転化 さみー・やべー・すげー・つか】
16.さみー(寒い)、17.やべー(やばい)、すげー(すごい)などはいずれも連母音ui oi aiなどを続けて長音化したもので、『何者』では男性だけが使っていることは先に2の例に続けて書いたところです。このような音転化「しねえ(しない)」「おもしれ―(おもしろい)」「ひでー(ひどい)」などに関してはもともとの江戸弁(東京下町方言)などにも見られたもので、実際のところ若者のことばの特徴とは言えないでしょう。これらのことばが「若者らしい」という印象を与えるのは、むしろ「さむい」「やばい」「すごい」などが本来的な意味から変化した新しい意味や形式を付加されて使われているからかもしれません。
このほかに音が変化しているものとしては、拓人、光太郎がよく言う「つか」「つーか」は「というか→ていうか→てか・つーか→つか」と変化したもので、この音変化は21拓人の「勘つー(という)ことで」にも現れています。ただし面白いのは『何者』に「というか」は皆無、「ていうか」は以下36 文末の1例だけで、他の人物も元の語形を使うことはありません。ここからは、この言い方が音転化とは意識されず、すでに常用的な文頭の言いだしのことばとして、(若い?)男性用語として定着しているようにも見えます。

36. 理香:拓人君って烏丸ギンジ君の友だちなんでしょ?  隆良に聞いた。
  拓人:ああ、まあ、友達っていうか


【ことばの意味や語形の変化  やばい・さむい・マジ・全然・バレバレ・速攻】
もともと使われていたことばだが、意味が変化したというものです。
「やばい」は江戸時代にも隠語として使われたという名詞「やば」(法に触れたり危険だったりして具合の悪いこと)がもとで形容詞化し「危ない」という意味で使われてきましたが、『何者』では23「ヤバ、マジか」(雨で洗濯物が濡れてしまう)、24「お、ヤベー非通知だ(面接の通知がきた?)」のように「大変だ!」から5「ヤバい、スゲー心強いわ」、22(音楽を聴いて)「かっこいいんだよ。これ、激ヤバ」のように「すばらしい」「よかった」のように、いずれにしろ驚きつつ、その驚きの内容が強烈であるような場合に良い意味・悪い意味問わず使われ、語形も「やばい」「やべー」「やば」さらに「激ヤバ」とバリエーション化しているようです。
拓人がよく言う「さむい(さみー)」(寒い・寂しい?から)誰かの発言や行動が場違いであったり興ざめである状態を指す言い方に。たくさん出てくる「マジ」は「真面目」からですが、『何者』ではほとんどは驚きを表して「ホント?」という感動詞のように使われています。
「全然」は5理香「全然いいよ」19光太郎「全然あり」は2例ですが、通常は副詞としての「全然」は後に打消しの語や否定的な表現を伴うとされる、その文法的規定からいうとまったく外れた使い方です。『何者』には8例の「全然」が出てきますが、他の6例は「全然ちがう」「全然~ない」という語例なので、相手の要望や提案を全面的に(喜んで)受け入れるというこの2例は、やはり例外的な使用というべきだろうと感じられます。とはいえ、この後ろが肯定的な「全然」も実は明治時代の小説などにも出てきますので「新語」とも「若者ことば」とも言いにくい気もします。
28「最終面接にいるみんな、行きたくないのバレバレで」の「バレバレ」は「ばれる」からの形の変化でこれも比較的近年の話しことばにはよくあらわれるようです。「ばれる」自体が中国語の「敗露[bailu]」(露顕する)「暴露[baolu)」(さらけ出す)からきているという俗説?があり漢字がない動詞なのですが、この「バレバレ」とか「見え見え」のように語幹を二つ重ねて「(隠したとしても)わかってしまう」状況を表すのは比較的新しい言い方のように思われます。15「速攻内定ゲット」の「速攻」も「素早く攻める」という意味が、単に速いことをしめす「すぐに」の意味で使われています。考えてみれば「内定」や「ゲット」も後にあげるJargonの1種として「若者ことば」「新語」とみるべきかも…というには、現代では定着して、使用者も「若者」とは限りませんし、何が「新語」か何が「若者ことば」かという判定はなかなかに難しいようにも思います。

【強調表現 超・メッチャ・すごい】
「とても・ひどく・たいへん」というような強調表現は古びてくるとーというか標準化されるとー強調のインパクトが弱くなる?ということで新しいことば=使い方が生まれやすいのかもしれません。「超(チョー)」や「メッチャ」は1980年代ごろからよく使われるようになったと言われますが、気軽な話しことばの中では『何者』でもこれらの語が盛んに使われています。映画の中で使われるということは新語として発生したことばでも、ある程度一般化して、年代を問わない観客が見ても理解ができる(自分たちは使わない若者世代のことばだと思うかもしれませんが)ということでしょう。
実際に私たちが収集した『談話資料 日常生活のことば』(2016)という自然談話資料では「メッチャ」の使用者は20代男女に比較的多いのですが、「チョー」は20代女性の使用がやや多いものの10代から60代に、「すごい」も各年代に分布しています(遠藤2018)。
「すごい」に関しては、もともとは「凄い」で「ぞっとするほど恐ろしい」ということから「ぞっとする=驚くほど程度が高い」と意味が転化したということなどは、いまさら言うべきこととも思えないほど、「よくも悪くも程度が高い」ことを示すことばになっていることは言うまでもありません。「新語」としては1拓人「スーツすごい似合ってる」35瑞月「舞台すごい面白かった」のように動詞や形容詞の前が「すごく」という連用形ではなく、「すごい」になる言い方で、これは比較的最近よく耳にするもののように思われます。ちなみに『何者』には10例の「すごい」2例の「すごく」が出てきますが、これらは「~はすごい」「わたしの実家すごい田舎だから」や後輩女子学生が言う「すごくないですか」という形で、「すごく」は丁寧体とともに用いられています。話者はこの後輩の1例をのぞくとすべて拓人か瑞月で、これは光太郎や理香が「すごい」ではなく他の強調表現を使っていると見ることができそうです。光太郎は28「めちゃくちゃ」という強調表現も使っています。

【ちょっと遠回しに言う つか・かな】
「つか」は「というか→ていうか→てか・つーか→つか」と転化したものだと先に述べましたが、これこそ「新語形」と言ってもいいかもしれません。先にあげた『談話資料 日常生活のことば』(2016)の談話には、実は発話頭の「つか」は出てこず「てか」の形がもっぱら使われているようです。この資料の発話頭の「てか」の使用は20代が最も多く、30代がそれに続き、40代がわずか、50代から上には全く使われていません(中島2016)。「てか(つか)」は次の37のように自分の前の発話に続けて、補正しながら言い直して新しい意見を付け加えるような場合、31や38のように相手の発話を軽く受けて、内容的にはその反論やまったく違った意見に談話を転換するときのいわばマーカーのような使い方をしています。泉子・K・メイナード(2009)によれば、発話頭の「ていうか」(前文を引用として疑問の「か」をつける)は躊躇感を出しつつ後続することばに注目してほしいという気持ちを表すのだと言います。この「躊躇感」というのは面白い言い方で、要するに自分の発言であれ他者の発言であれ、完璧に否定するのではないけれど、でもちょっと違った視点、違った意見を言うよということを婉曲に表現していることになります。このような意見提示のしかたは高年代からみれば歯がゆいというか、留保をつけた自己防衛とも見えるような「若者らしい」表現のしかたと言えるかもしれません。

37.光太郎:(理香は)もう高校のときから英語英語で、数学とかスゲー苦手なんだって。
   にウェブテストみたいにさ、もう短い時間でやんなきゃいけないやつだったら、焦っ
   てこんがらがっちゃうんだって。
   つか、そんな苦手なんだったら誰かに手伝ってもらえばいいのにな。

38. 瑞月:(隆良は)午後の部、受けんのかな。あと1時間ぐらいあるけど。
  拓人:つか、隆良って就活してたんだ。

同じように気になる=面白い言い方は20の一連の談話で理香と瑞月が使う文末の「かな」です。どんな会社・職種を希望するのかと聞かれ、「うーん、やっぱり語学力を生かせるところに行きたいかな」「何があるかわかんないし、安定を求めちゃうかな」と他人事のように答えています。断定するにはちょっと自信がないということでしょうか。その判断を相手から否定されたくないという自己防衛的な感覚も働いているようで、聞き手によってはイライラしてしまうかもしれません。若い人に限ったことではないでしょうし、『若者』の中でも男性陣は使いません(男女ともにもちろん、疑問の問いかけや、自問自答的な「かな」は出てきます)が、ここで就職に立ち向かいつつ自信が今一つ持てない若い女性のことばとして設定されているこのような「かな」が実際の日常社会ではどのように使われているのか気になるところです。

【音の脱落 マジ・やば・あんま・おきっぱ・やだ・半端ない】
「マジ」=「マジメ」、「ヤバ」=「ヤバイ」、「あんま」=「あ(ん)まり」、「やだ」=「いやだ」 「半端ない」=「半端じゃない」ということになるでしょうか。
この中でちょっとに気になるのは「ヤバ」(やばい)という形容詞の文末「い」の脱落した形で、「すごッ」「たかッ」「でかッ」と促音がつくような勢いで言い切る形を90年代終わりくらいかららい耳にすることが多くなりました。客観的な形容よりも、それに伴う感動、自分の感覚や気持ちを表す場合によく使われるようです(小林2002)。もともと「熱!」とか「イタッ」のようないいかたはあったわけですから、語形自体も使い方も新しいとは言えないかもしれませんが、その範囲は明らかに広がっているように思われます。ただし映画世界『何者』の中ではほぼ「ヤバ」に限られてはいるのですが。

【Jargon (+縮約/省略形) メアド・グルディス・エントリーシート・ウェブテスト】
「Jargon(ジャーゴン)」とは「専門用語」「職業用語」などとも訳されるような、いわゆる仲間うちだけに通用することばです。『何者』に出てくることばについて言えば「メアド(メールアドレス)」も「グルディス(グループ・ディスカッション)」ももはやJargonとは言えないかもしれませんが、登場人物の生活の場というか中心となっている就職や、パソコンに関するようなことばと言うのは、それにかかわりのない人には理解しにくいことばとして一応Jargonのうちに入れておきます。もう一つ言うと日本語の場合このような言葉が複合語であればそれぞれの語頭を取って縮約形または省略形ともいえるような形を作ることも多いと言えます。
これらのことばがいわゆる仲間内のJargonから、一般的な用語に広がっていくのはその世界が一般化する(PCやSNSなどに関する用語はまさにそうなっている)ことによりますが、現代では『何者』も含む映画やその他メディアによって業界用語などが多くの人に知られ使われるようになることもあると言えます。 

さて、まとめてみると

文末に男女の差がない、というところから出発した『何者』のことばの考察ですが、実際に細かく見てみると、特に「スゲー」「やべー」のような連母音の長音化のように、少なくともこの映画の中では男性に限られることばもあり、「ス体」やその他の比較的新しい時代に用いられるようになったことばについても、闊達に自在に用いているかのような光太郎から、まじめなオーソドックスな話法に終始して新語の類はあまり用いない瑞月まで差があることがわかりました。これらを男女差と見るのか、個性の差と見るのかには論もあるところかもしれません。ー瑞月だって場や相手によってはもっと自由に新しいことばや若者らしいことばを駆使するかもしれないという意味において。逆に自由自在に相手の懐に飛び込むようなコミュニケーションをとる光太郎も、というか光太郎だからこそ場と相手によっては丁寧体を使い省略的な表現などを使わないという意味でオーソドックスなスピーチスタイルをとっていることを垣間見ることができます。取り上げた他の映画にはあまり出てこないような新語・若者ことばはこのようなことば・話体の使い分けのはざまで生き生きとその姿を現しているようです。
映画『何者』では瑞月のまじめさや、光太郎のコミュニケーション能力が就活を成功に導くと言っているようで、悩める若者である拓人や理香ー二人とも言語能力は決して低くはなさそうですがやはり自分へのこだわりが強くて、相手の心情を思いやるようなコミュニケーションがとれない??ゆえか、なかなか就活に成功しません。本当は多くの若者がむしろ拓人や理香のようであるはず…。そんな若者たちにエールを送りたくなるような映画です。


  【参考資料】

・中村桃子(2020)『新敬語「マジヤバイっす」社会言語学の視点から』 (白澤社/現代 
   書館)
・遠藤織枝・小林美恵子・佐竹久仁子・高橋美奈子編(2016)『談話資料 日常生活のこと
   ば』(現代日本語研究会・ひつじ書房)
・遠藤織枝(2018)「強調表現 メッチャからスンゴイまで」『今どきの日本語 変わるこ
   とば・変わらないことば』(遠藤織枝編・ひつじ書房 2章)
・中島悦子(2018)「「この本おもしろいっていうか」という心理」『今どきの日本語 変
   わることば・変わらないことば』(遠藤織枝編・ひつじ書房 8章)
・泉子・K・メイナード(2019)『ていうか、やっぱり日本語だよね』(大修館書店)
・小林美恵子(2002)『日本人にも外国人にも心地よい日本語ー共生社会の日本語』(明石
   書店)




 







 
      



2021年1月14日木曜日

『海街diary』にみる女性たちのことば―普通体のバリエーションー

【こんな映画】 

監督・脚本:是枝裕和  2015年  128分

原作:吉田秋生


出演:綾瀬はるか(長女・香田幸)
   長澤まさみ(次女・香田佳乃)
   夏帆(三女・香田千佳)
   広瀬すず(異母妹・浅野すず)
   風吹じゅん(海猫食堂店主・二宮) 
   リリー・フランキー(山猫亭店主・福田)
   樹木希林(大叔母・菊池史代)
   大竹しのぶ(母・香田都) 
   堤真一(医師・幸の恋人椎名和也) 
   加瀬亮(銀行員・佳乃の上司坂下)  
   鈴木亮平(理学療法士・すずのサッカーチーム監督ヤス) 
   坂口健太郎(佳乃の彼氏・藤井朋章) 
   池田貴史(スポーツ用品店マックス店長・千佳の上司・??浜田三蔵)
   前田旺史郎(すずの級友・風太 サッカー仲間 ボーイフレンド)


                          
吉田秋生の人気コミックを映画化した是枝裕和作品。
第68回カンヌ映画祭コンペティション部門に出品され、第39回日本アカデミー賞では最優秀作品賞・最優秀監督賞など4冠に輝きました。


鎌倉に住む香田家の3姉妹、しっかり者の長女・幸は看護師、酒好きで恋多き女?の次女・佳乃は地方信金の行員、明るく、気軽・面倒見もよい三女の千佳はスポーツ用品店で働いています。姉妹の父母はそれぞれ家を出てしまっていて、幸は高校生時代から母代わりになって妹たちを育ててきました。
ある日、15年前に家族を捨て、別の女性と暮すようになっていた父が亡くなったという報せが来て、姉妹は山形での父の葬儀に参列します。そこで知り合ったのが亡き父の忘れ形見の中学生の異母妹・すずでした。父が亡くなり身寄りがなくなってしまったすずですが、葬儀の場でもけなげに、毅然と立ち振るまい、姉妹は心を打たれます。父はすでにすずの母とは死別し、新しい女性と暮していましたが、その父亡き後、連れ子のいる義母との生活にすずの安住の場所はないとみた幸は、鎌倉にきて一緒に暮らそうと、すずを誘います。
こうして、鎌倉でのすずを加えた4姉妹の生活がはじまります。彼女たちを囲む湘南の陽光にあふれた四季、遭遇するできごとや寄り添うように在る人々の存在が温かく、懐かしく彼女たちの生活を彩っていきます。

【ことばについての着眼点】


この映画の中心となっているのは、基本的には親しい家族の女性間の普通体会話ですが、長女と次女・三女、また最初は他人的存在として三姉妹の前に現れる末妹のスピーチスタイルは微妙に違うようです。
特に長女の幸は、妹たちに対する場合、親しいとはいえ年長で目上ともいえる大叔母に対する場合、長らく別居中の母に対する場合、そして不倫の恋人である椎名に対する場合など、どれも普通体の会話ですが少しずつ違うところがあり、相手によって話体を変えています。
幸や姉妹に対する母や大叔母の話体は、女性形式「わ」や「かしら」なども含む、いわゆる女性らしい形式で話されていることにも気がつきます。
また、末妹すずは初対面では三人の姉に対していかにも他人行儀な丁寧体発話ですが、同居し打ち解けるようになるとことばが変わっていきます。このような変化の契機や、変化の原因についても見ていきたいと思います。


3姉妹ー幸・佳乃・千佳の会話


まずは3姉妹の会話から。
3姉妹の住む香田家に、15年前に家を出て、ある女性と一緒になった父が、山形で亡くなったという連絡が入り、3姉妹が葬式に行く相談をする場面です。

1.佳乃:あの女の人から? 電話。
  幸:あの人とは死に別れたんだって。
  佳乃:ふーん。
  幸:千佳、かきこまない。
  千佳:はい。
  幸:で、今の奥さんとまた山形で。
  佳乃:じゃ、3人目だ。やるー。
  幸:(千佳に)あんたね、高血圧になるわよ、おばあちゃんみたいに。
  千佳:だって、幸ねえの漬物、味しないじゃん。
  幸:浅漬けなんだから、いい。で、なんか娘がいるんだって。
  佳乃:娘って、妹?
  幸:ま、そうなるね。
  千佳:どうする? 葬式。
  幸:あたし、行けないから、夜勤で。
  千佳:そう? 
  佳乃:まあ、いいんじゃない? 別に。
  幸:あんた、行ってきてくんない? 千佳お供につけるから。
  佳乃:えー?

3人ともくだけた調子の普通体で話していますが、ここで少し目立つのは、幸が千佳の食べ方や好みについて注意していることばです。「かきこまない」という言い切り、「あんた、高血圧になるわよ」と呼びかけは「あんた」、女性文末形式として断定的な調子の「~の」「わよ」も使っていて、かなり高飛車というか遠慮のないことばづかいです。幸の二人の妹とは一線を画した保護者性というか責任感のありようを示している言い方であり、千佳も多少の口答えはしつつも「はい」とそれを受け容れてもいるようです。
妹たちがここで使う女性文末は疑問を表す「の?」ぐらいで、あとは3人とも文末は『何者』でも見られたような中性的な形式です。姉が妹に「あんた」と呼びかけるのは、叱るときばかりでなく、また次の2で佳乃が千佳に言っている例もあって、この映画の家族の中では普通のことのようです。
2は、幸がいない場での次女・佳乃と三女・千佳の会話ですが、姉の不在によってか、ぐっとくだけた自分の気持ちを直接表すような普通体になっており、文末は動詞の言い切りの他に、神奈川のこのあたりが発祥とも言われる「じゃん」を姉妹どちらも使い、リラックスした会話です。姉は妹に「あんた」ですが、妹は「よっちゃん」と、姉の呼び名をいわばニックネーム化しています。

2 佳乃:なんか、気が重い。父親ったって15年も会ってないし。
  千佳:お父さん、やさしかったよね。動物園連れてってくれたりしたじゃん
  佳乃:でも、夜中によくケンカしててさ、お姉ちゃんがお母さんを慰めてるのを
    何度も見た。
  千佳:わたし、ほとんど覚えてないからね。
  佳乃:あんた、まだ、ちっちゃかったし。
  千佳:妹か…。
  佳乃:ほしいって言ってたじゃん
  千佳:子どものころだよ。今さらそんなこと言われてもさー。
  佳乃:だよね。
           *****************
  千佳:あ、すずしい。
  佳乃:ああ、ビール。ビール飲みたい。
  千佳:あ、きれいだね。あ、よっちゃん、下、川だよ。なんか釣れるかな。
  佳乃:そんなことより、ビール飲みたい。

すずの話体の変化


3 すず:香田さんですか? あたし、浅野すずです。
  千佳:あ。
  佳乃:それじゃあ、
  すず:遠いところお疲れ様です。すこし上りますけど近道なんです。
                ********
  すず:後で母がご挨拶に伺うと思います。
  佳乃:あ、ありがとう。迎えに来てくれて。
  千佳:ありがとね。 

はじめて佳乃と千佳に会ったすずは、名字+敬称(さん)で呼びかけ、初対面の他人への声かけとして丁寧体で話します。すずには、まだ佳乃や千佳を姉と思う認識はありません。これに対して、佳乃や千佳は親しい年下にに話すような調子の普通体で話しています。その後、幸も合流し、3姉妹はすずの案内で街の中の父が最も好きだったという場所に案内してもらいます。そこは鎌倉の風景を彷彿とさせるような山の上でした。そこで姉妹とすずは次ののような会話をし、駅で別れる時に幸はすずに鎌倉に来るように誘います。

4 幸:この町好き?
  すず:好きっていうか、こっちへ来てまだそんなにたってないので。
  佳乃:だよね。
  すず:でも、なんで、お父さんがここに住みたいと思ったのかわかりました。

ここで注目すべきはすずの「婉曲話法」です。すずは、まだ来て間もない、知り合いもいない中で義母にかわって死にゆく父の看病をしたこの街にいい印象は持っていません。すずの年齢であれば「きらい」と言い切ってもいいとも思われますが、彼女は多分これから自分が住み続けていくであろうこの街に対しても、また聞いてくれた姉たちに対しても気を使ったのでしょう。「こちらに来てまだ間もないので(わからない)」という言い方で自分の感情をあらわにすることを避けています。

その後、すずは鎌倉に引っ越し姉たちと住むことになりますが、もちろんこの段階でもすずが姉たちと同じような普通体のくだけた会話をするようになるわけではありません。そんなすずに姉たちは三者三様に、彼女がこの家や姉妹になじむように働きかけをします。

5 すず:わたし、手伝います。
  幸:すずはいいから、荷物の整理しなさいあんたじゃなきゃわかんないでしょ。
  すず:はい。
  幸:もう、妹なんだから「ちゃん」はつけないわよ。              
  すず:はい。

6 千佳:おばあちゃんとおじいちゃん。どっちも学校の先生。
  すず:へー。幸さんに似てますね。  
  千佳:それ、幸ねえに言わないほうがいいよ。一番嫌みたい。
  すず:そうなんですか?
  千佳:うん。お母さんとけんかするたびにそう言われたから。

7 佳乃:もうだめだ! 
  すず:走れば間に合う。           (極楽寺駅に駆け込む)
      佳乃さん、早く。電車きた(電車に乗り遅れ、1本待つ2人

  すず:佳乃さん、間に合います
  佳乃:え?いいのよ。大した仕事じゃないから。
     すずさあ、そろそろ「さん」やめない?
 すず:「さん」?
 佳乃:「佳乃さん」。「よっちゃん」でいいよ
 すず:はい。


5では姉・幸が今までは「すずちゃん」と呼んでいたが、これからは妹なので「ちゃん」をつけず「すず」と呼ぶ、と言い渡し、7では佳乃が「佳乃さん」でなく「よっちゃん」と呼ぶようにとすずに言っています。
出会った相手をなんと呼ぶかということは日本語においては結構難しい問題だと思われます。すずにしてみれば姉たちを「お姉さん」などと呼んで、自分を「妹」と位置付けていいのかどうか、最初は悩むところだったのでしょう。これに対して幸は、自分は妹のあなたに「ちゃん」をつけないと宣言し、佳乃の方は他人行儀の「佳乃さん」でなく千佳が呼ぶのと同じように「よっちゃん」と呼べといわば命じることにより、すずの遠慮を取り除き、妹として遇することを宣言したわけです。
7では、電車に間に合うかどうかというような緊迫した場面で、すずは佳乃に向かってすでに普通体で話しかけていますが、ちょっと落ち着くと丁寧体が戻ってくる状態です。
6の千佳は、まだ丁寧体を崩さないすずに、気軽な調子の普通体で話し、すずが「幸さん」と呼ぶ幸のことも「幸ねえ」という家族内の呼び名で返すなど、親しい年下の女友達ー妹に話すような言い方で、すずをリラックスさせています。

この家族、10代後半から30前後までの4人の姉妹で、気軽な調子の普通体会話が行われているようですが、呼称という視点から見ると案外長幼の秩序のようなものが存在するようです。長姉・幸に対しては佳乃や千佳(そして後からはすずも)は「お姉ちゃん」または「幸ねえ(「シャチ姉」と訛ることも。海獣シャチを思わせる「怖いお姉ちゃん」の意もありそう)、ですが千佳は佳乃を「よっちゃん」と呼び「お姉ちゃん」ということはないようです。また、年上から年下に対しては呼び捨てが原則であることもわかります。すずが親しくなってから千佳を呼ぶ場面はこの映画には出てきませんが「ちかちゃん」とでも呼ぶのであろうことが想像できます。
家族間の特に年の近い兄弟・姉妹の呼び方は現代では昔とは少し変わってきているかもしれません。兄弟姉妹間の長幼の差というようなものがあまり意識されなくなり、互いに名前を呼び捨てにしあったり、「名前+ちゃん」や愛称で呼び合うという場合が増えているのではないかとも感じられます。

さて、そんなふうにしてすずは少しずつ姉たちになじみ、妹らしい普通体も時に出てくるというふうになっていきます。しかし本当に垣根が外れ、千佳が姉たちに対するのと同じようなフランクな普通体基調になるにはまだまだ時間がかかり、映画のおよそ三分の一が過ぎたあたりです。
ある日幸が帰宅すると、間違って飲んだ梅酒に酔っぱらったすずが前後不覚の状態になっており佳乃と千佳が大慌てで介抱していました。今まで抑えていたいい子ぶりのタガがはずれたようにくだを巻くすず。

8 すず:陽子さんなんて大っ嫌い!お父さんのバーカ!
    ウーン暑い、気持ち悪い!

姉たちに心配され、あきれられながら眠り込んだすずはやがて目覚めます。

9 千佳:ごめんね。すず。
  幸:千佳もダメだけど、すずもダメでしょ。
  すず:だって自分ちで作った梅酒飲んでみたかったんだもん。
  幸:わかった。来年実がなったら、すず用にアルコール抜きのやつ作ってあげる。
  すず:あの梅ってうちで採れたの?
  幸:うん
             ***************
  幸:ほら、あそこ。結構実がなるのよ。
  すず:へー。
  千佳:実もなるけど、毛虫もつくんだよ。
  すず:すごい。早くとりたいなあ。
  千佳:え?毛虫を?
   すず:違うよ、梅の実。

酔って乱れた姿をさらし本音を吐くことにより、姉たちはすずの抑えた気持ちを知りますし、すずもそこからは本当に妹として、姉たちに遠慮をしないくだけた普通体でしゃべり、「違うよ」のような直接的な反論もすることができるようになったのです。
 
すずはこのように、姉たちとことばの上でも「なじむ」にはなかなか時間がかかり苦労するのですが、一方初めてあった同年代のクラスメートなどには最初から打ち解けた物言いです。

10 クラスメート(女1):よろしくね。
  クラスメート(女2):部活は、なに入ってたの?
  すず:サッカーやってた。
  クラスメート(女2):わたし、バスケだよ。
  クラスメート(女3):わたしも。
  すず:バスケなの?
               *************
  風太浅野。浜田店長が言っていたけど、これオクトパスの。ここに親の名前とはんこ
    よろしく。
  すず:うち、お姉ちゃんしかいないけど、いいかな?
  風太:うん、全然大丈夫だよ。じゃあ、よろしくね。
  すず:分かった、ありがとう。

すでにこの会話の前に、転校生としてのすずは皆の前で紹介されてはいるのですが、前半のクラスメートたちとの会話では初対面の挨拶といったものは、ひとりの「よろしくね」を除いては発せられることなく、部活に関する話題に入っていきます(『何者』でもすぐに比較的くだけた会話が行われましたが、少なくとも最初の挨拶や自己紹介は「です・ます」調で行われていました)。その会話はすべて普通体で、「です・ます」は出てきません。
同居して自分を妹として遇してくれる姉たちと、初対面のクラスメートと心情的にどちらがより親しいのかという点での判断は微妙なところですが、少なくともすずや(級友たちの)発することばの上からは、彼らが互いに知り合っているかどうかということを越えて、同じ場でこれから付き合っていく同年代の相手として対等で親しい関係を最初から持ち得ていると考えられます。

幸の普通体ー大叔母や母に対する場合


次に長姉・幸の普通体会話を見ていきましょう。
彼女ももちろん、職場や、たとえば父の葬儀の場面で初対面の父の妻や親戚に会ったとき、また後にも上げる海猫食堂の店主・二宮などとは丁寧体で話していますが、年上の相手でも大叔母、母、そして妻のいる恋人・椎名などとは親しい関係ということで普通体を基調とする会話をしています。しかしその調子は妹たちなどに対する場合とはかなりちがったものです。

11 史代:さっちゃん、犬や猫じゃないのよ
   幸:わかってるわよ、おばさん。
   史代:お母さんに相談した
       幸:別に。そんな必要ないでしょ。
       史代:まあね、姉さん、生きてたらあんたとおんなじこと言っただろうけど。でもね、
             しつこいようだけど、子ども育てるって大変
       幸:大丈夫。佳乃や千佳だって、ちゃんとあれしてきたんだし。
       史代:さっちゃん、よーく考えてね、あの子は、妹は妹だけど、あんたたちの家庭を壊
            した人の娘さんなんだからね。
       幸:関係ないでしょ。あの子はまだ生まれてもいなかったんだから。
       史代:これじゃ、 また、嫁に行くのが遅れる

幸たち姉妹の大叔母(娘=姉妹の母の出奔後姉妹の面倒を見た祖母の妹にあたる)史代が、姉妹が父の愛人(=再婚相手)との娘すずを引き取ることについて心配している場面です。
大叔母・史代のことばには「~ないのよ」「~したの?」「大変よ」「遅れるわ」などのいわゆる女性形式と言われる文末が目立ちます。比較的高齢の女性のことばとして『家族はつらいよ』の富子のことばなどにも見られたものです。これに対して幸も「分かってるわよ」「大丈夫よ」のように同じく女性形式を使って答えています。

12、13は家を出ていった姉妹の母・都が久しぶりに母(姉妹の祖母)の法事に戻ってきたときの会話です。

12 都:ごめんね、遅くなっちゃって。ネックレス、どこにあれしたかわかんなんくなっ
   ちゃって。
  佳乃:そんなことだろうと思ってた。
  都:千佳、髪型変えたのね
  千佳:うん。
  都:佳乃もきれいな色、それ。お母さんも染めてみようかしら
  幸:今日はわざわざどうも。
  都:ごめんね、長いこと、連絡しなくて。
  幸:お母さん、すず
  すず:はじめまして。浅野すずです。
  都:ああ、あなたが、ああ、あ、そうなの。はじめまして。幸たちの母です。


13 都:おばさんもいるし、ちょうどいい。実はこの家なんだけどね、思い切って処分
   したらどうかなと思って。
  佳乃:え?処分って、売るってこと?
  都:庭の手入れだって大変でしょ?この子たちだっていずれお嫁に行くだろうし。だ
   ったら管理も楽なマンションとか…
  幸:勝手なこと言わないで。お母さんにこの家のことどうこうする権利なんてないで
   しょ。庭の手入れなんか、お母さん、一度もしたことないじゃない。管理って、この
   家捨てて出て行ったのになんでわかる
  都:なに、そんなにむきになってんのよ。ただ、どうかなあと思っただけで。
  史代:はいはい、もういいから。やめましょうよね
  都:どうして、あんたいつもそういう言い方するのよ。悪かったって思ってるわよ。で
   ももとはと言えばお父さんが女の人を作ったのが原因じゃない。
  佳乃:ねえ、ちょっと二人ともやめなよ。
  幸:お母さんはいつだって人のせいじゃない。わたしたちがいるから別れられない、お
   ばあちゃんがダメって言ったからあんたたちを連れていけない。
  都:だって、しょうがないじゃない、ほんとのことだもん。
  幸:いい年して子どもみたいなこと言わないで
  史代:はい、二人ともそれでおしまい。さっちゃん、ことばが過ぎるわよ。仮にも母親
   じゃないの。都ちゃん、女作られるにはあんたも悪いとこあったのよ
  都:だって…
  史代:だってもなにもありません。この話はこれでおしまい! 姉さん死んでてよかっ
   た情けない、まったく。

娘たちを置いて家を出た母に対する意識は、まだ幼かった佳乃や千佳と、置いていかれた妹
たちを自分が育てたと思っている幸とではずいぶん違い、幸は母には厳しい口調で話してい
ます。
12で母・都は、遅れてくるなり千佳や佳乃の髪型に言及し、「変えたのね」「お母さんも染
てみようかしら」と「のね」「かしら」などの女性形式を用いながら親し気に話しかけま
が、それも幸には気に障ることで、ことさらぶっきらぼうに挨拶します。ただそのあと、
「すずよ」と紹介する言い方、そして13で、家を売ろうという母に反論する場面など、いず
れも母や大叔母の言い方に合わせるかのように「言わないでよ」「わかるの?」と形女性
形式、語調は鋭く厳しい言い方です。母や叔母の応酬ももちろん同じ。途中で佳乃が「二人
ともやめなよ」と中性的な形式で言うのがむしろのどかというか、ニュートラルな感じがし
ます。

幸と佳乃のbattle!


幸と佳乃も、実は映画の中でけっこう激しく言い争いをします。

14 佳乃:わたしが稼いだ金、わたしがどう使おうが勝手でしょ。
  幸:だったらホストにふられたからって、酒食らって大暴れするのやめてよね
  佳乃:お姉ちゃんにはわかんないわよ。酒飲む人間の気持ちなんか。
  幸:わからなくて結構です
  佳乃:ああ、むかつく。風呂先入ってやる。たっぷり2時間。

15 幸:ちょっと、そのブラウス、あたしが買ってきたやつじゃないよ
  佳乃:あれ、そうだっけ?
  幸:やめてよね。脱ぎなさいよ
  佳乃:今日だけ、貸してくれたって、
  幸:ダメ。あたしだってまだ着てないんだから。
  佳乃:お姉ちゃん、この前、あたしのブーツ履いたじゃないよ
  幸:いつの話よ。似合わないって、それ、あんたには。
  佳乃:ババクサイ。
  幸:ちょっと勝手に着といてババクサイってどういうこと!
  佳乃:どういうことよってねえ、
  幸:もっとチャラチャラしたのにしなさいよー

16 佳乃:どう?(新しいスーツを着る)
  千佳:いいじゃん。
  すず:できるOLの人みたい。
  千佳:ねえねえねえ、このさ、「融資課長席付お客様相談係」って、要するに何?
  佳乃:うーん、要するにこれからは課長について外回りもありってことよ
  千佳:ふーん。
  幸:仕事に生きるんだ。
  佳乃:そうよ、悪い?
  幸:悪いなんて言ってないわよ。本気ならね。
  佳乃:本気ですよー
  幸:男にふられて逃げ込んでるんだったら甘いかもね
  佳乃:そりゃ、仕事一筋ウン十年の人にはかないませんけどねぇ
  幸:何よ、その言い方。だいたいあんたはねえ、
  千佳・すず:(さえぎって)いただきまーす!
  幸:どうぞ。

この言い争いがおさまって、姉妹は一緒に障子貼りをしたり、海岸に行って貝を拾ったりします。18では佳乃は幸に仕事上の悩みを相談したりもしています。

17 幸:好きなように貼っていいよ。
  佳乃:じゃ、これ張ろうかな。よいしょ。 ちゃんと大きさ見てから切りなよ、千佳。

18 佳乃:ちょっといい? 仕事のこと。
  幸:いいよ。
  佳乃:お姉ちゃんはさぁ、仕事で亡くなる人とかいっぱい見てるわけじゃん? そうい
    うのって、どうかなあって。いちいち敏感に感じてたら仕事になんないよね?
    幸:うん、でも仕事って割り切ってるかっていうとちょっと違うかな。
    佳乃:だよね。はあ、安心した。慣れればいいってもんでもないもんね。
    幸:逆に患者さんが亡くなるのには慣れちゃいけないと思ってるよ。
    佳乃:勉強になります。(かけてあるブラウスを見て)フフフ。 いいね?これ。
    幸:じゃあ、あんたにあげるよ。
    佳乃:え?勝負服じゃないの?
    幸:わたしは服に頼らなくても勝つときは勝ちますから。
    佳乃:フフフ。じゃあ。 
       お姉ちゃんさ、このうちなら大丈夫だよ。わたしと千佳ですずの面倒くらい見ら
       れるし。もう昔とは違うんだから。
    幸:うん。ありがと。
    佳乃:そんなだと、嫁行く前にお母さんになっちゃうよ。
    幸:そうだねえ。気をつける。
    
  14、15、16の言い争いの場面では、幸だけでなく佳乃にも「わよ」「やめてよね」「いつの話よ」「そうよ」「かもね」「なによ」などの女性形式や「なさい」という形の命令形式、また「です・ます」などの丁寧体が現れます。「~じゃないよ」というのもこの場合は「~ではない」と否定したのではなく、「ではないか」と相手に詰問する形式の、これも女性形式といってよいと思われます。このように女性形式をつかったり、やや丁寧な言い方をすることにより相手を責めたり、反論したりというのは、『家族はつらいよ』の敬語や女性形式の使い方とも共通します。17、18で穏やかな会話をするときには、このような形式がなくなり、二人とも中性的な形式と言える「~だよ」「動詞+よ(あげるよ)(なっちゃうよ)」「かな」また普通体終止形言い切りの形の文末になっています。
  もう一つ、14で気づくのは、二人の会話では「金」「酒」「風呂」など一般的には「お」をつけて美化語化する語が、すべて「お」なしでハダカのままになっていることです。これは1の千佳の「どうする、葬式?」の「葬式」も、また18の「嫁(に)行く」もそうでした。1や18の例は相手との言い争いの場で言われたわけではありませんから、少し乱暴な感じもする言い方ですが、これは姉妹間の遠慮のない関係の中で出てきたものと言った方がいいかとも考えられます。
  ちなみに幸は次の19、恋人・椎名との会話では幸は「お葬式」と「お」をつけて言っています。


幸の普通体ー恋人・椎名との会話

 

幸は、同じ病院勤務で妻と別居中の小児科医・椎名とひそかにつきあっています。年の離れた椎名は幸にとって医学面でもまた19のように生活面でも助言や援助をくれ、リードしてくれると同時に対等に語り合える相手でもあるのですが、やはり別居中とはいえ、彼に心を病んで不調であるという妻がいることは、幸にとっては負担となっています。父が不倫によってすずという妹が生まれたこと、すずが「奥さんのいる人を好きになるなんて、お母さんよくないよね」と幸に漏らす場面がありますが、そのことばはそのままに幸自身にとって自分を糾弾するものでもあるわけです。

 19 名:おう。
    幸:ああ。
    椎名:引っ越してきたんだろ、妹さん。でも、やることが大胆だよな。まあ、さっち
      ゃんらしいけど。
    幸:やっぱり、行ってよかった。お葬式。でなきゃ妹にも会えなかったし。
    椎名:たまには人のいうこと聞いてみるもんだろ。
    幸:うん。ありがと。 
          椎名:今度日勤いつ? 晩飯でもどう?
          幸:うん。勤務表確認してみる。
   
 20  幸:あたし、多分人のダメなところばっかり気になっちゃうんだよね
   椎名:それだけ自分にも厳しいんだから、さっちゃんは偉いよ。
   幸:ずっと学級委員だったからね(笑う)。 あ、
   椎名:ん?
   幸:和也さん、お箸噛むでしょう。
   椎名:え?
   幸:先のほう、ぼろぼろ。
   椎名:ああ、子どものころおふくろにもよく言われたよ。
   幸:こないだ雑貨屋でいい感じの見つけたんだけど、
   椎名:買ってきてくれたの?
   幸:ううん。
   椎名:買ってきてくれればよかったのに。
   幸:お箸を買うって、いろいろ気になるもんですよ、女の人は
   椎名:へー、そんなもんかな。
   幸:わたし、そろそろ帰るわ。あした日勤なんだ
   椎名:さっちゃん。
   幸:ん?
   椎名:おれ、アメリカに行こうと思ってるんだ
   幸:え?
   椎名:研修医時代、指導医だった人がボストンにいるんだけど、そこで小児がんの先
     端医療を学びたいんだ。一緒に来てくれない?
   幸:だって…
   椎名:女房とは別れる。あ、ごめん、急にこんなこと言って。でも、ずっと考えて
     ことなんだ

19は、椎名に勧められ、車で送ってもらって最初は行く気がなかった父の葬儀に行き、すず
を引き取ることになったあとの会話で、二人はともに中性的な形式の文末で気兼ねも遠慮も
ないような会話をしています。
20も前半は同じですが、途中椎名の「箸をかむ」癖への言及あたりから少し雰囲気がかわ
ります。幸にとって実際に料理を作り一緒に食事をしているのではあっても、いわば客とし
て椎名が一人暮らしするマンションを訪れていたところから、彼の食器を買うということ
は、それがたとえ箸1膳であってもある種の一線を越えるという感じがするのだと思われま
す。そのあたりに気づかず、妻ある身でありながら無神経に好意を要求する椎名に対して
「女の人(「女」と言わず「の人」をつけているところが幸の初々しさでしょう…)」と一
般化しながら少し皮肉っぽく抗議の意を示す幸のことばは、ここで丁寧体になり、それでも
ピンとこない様子の椎名に「帰る」というときには「帰るわ」と「わ」を使って言い切りま
す。もっともそのすぐ後に「明日日勤なんだ」と語調が強くなる「なのよ」でなく、やや説
明的ともいえる「なんだ」を使う幸はむしろこの部分に椎名に対する「対等な気の許し」を
込めているようでもあります。
20の会話で気づくのは、椎名も自分を説明し意思表明をするのにするのに「(な)んだ
よく使い、それに同調するというわけでもないのでしょうが、幸も「なんだ(よね)」を使
っていることです。この形式は『何者』の女性登場人物がよく使っていました(小林201
9)。また自然談話資料などでも若年層を中心に女性もよく使う「中性的な言い方」です
(小林2020)。幸が同じ普通体でも、妹たちや、まして大叔母・母などに対するのとは少し
違った中性形式を多用するにニュートラルな形式を使っていることがわかります。
その後、幸は椎名にアメリカには一緒に行けないと断り、別れを切り出します。

21 幸:ごめん。わたし一緒に行けないや。
  椎名:そう言われる気がしたよ。いつまでも決断できなかったおれが悪いな。
  幸:お互い様。だれのせいとかじゃない。ターミナルケアをね、ちゃんとやってみよう
   かと思う。
 椎名:そうか。

この時の言い方も、「行けないや」「~と思う」というむしろぶっきらぼうともいえる
ような中性形式です。女性形式を用いないこの言い方には、幸の「女性としてでなく」
「不満や批判をもつのでなく」「相手と対等に」「自分の決意を述べる」という意志が反
映されているようです。「行けないや」の「や」には年上の心を許した相手へのちょっぴ
り「甘え」の気配もあるかもしれません。



場面による丁寧体と普通体の使い分け 幸と佳乃 

サッカーチームに入ったすずや、サポーターの千佳がよく足を運ぶ「海猫食堂」の店主二
宮さんは彼女は昨年母を亡くし、ずっと疎遠だった弟が母の遺産の分け前をよこせとやっ
てくる、そのうえ本人には胃がんが発見されるという苦境に立たされ、映画の中で亡くな
ってしまう、いわばこの映随一の悲劇的人物ですが、それでもいつも温かい笑顔で姉妹を
見守ってくれる存在です。
姉妹はときにそろって店を訪れ、二宮と千佳や佳乃が幼かったころの昔話をしながら食事
をしたり、幸や佳乃は看護師や銀行員の立場で患者や顧客としての二宮とかかわることに
もなります。

22 千佳・佳乃:こんばんは。
   二宮:あら、みんなそろってなんて、初めてじゃない?
   幸:久しぶりに食べたくなっちゃって。
   二宮:うれしい。思い出してくれて。                 
   千佳:なんにしようかなあ。                       
   佳乃:わたし、とりあえずビール。あと、アジの南蛮漬け
   二宮:あ、ごめん、よっちゃん。南蛮漬け今日、終わっちゃった。
   佳乃:えー。
   幸:じゃあ、あたしはアジフライ定食。で、ビール。
   佳乃:お、珍しいね。じゃ、わたしもそれで。

23  幸:二宮さん。 
  二宮:ああ、さっちゃん。お久しぶり。
   幸:お久しぶりです。どうかなさったんですか?
   二宮:ああ、最近ときどき、胃が痛くて。
   幸:あら、それはよくないですね。
   二宮:まあ、母親が亡くなったり、いろいろあったから。
   幸:もうすぐ1年ですね。
   二宮:また、来てちょうだいよ。お店。
   幸:ええ。懐かしいなあ。
 
24 佳乃:食堂を残すには、弟様に1200万円を支払う必要があります。二宮さんの個人資
    産は、普通定期合わせた銀行預金が600万、うちから600万融資したとして…
  二宮:ごめんなさい。実はこの店、今月いっぱいで閉めるの。ちょっと、体の調子が
    よくなくて。
  佳乃:え?

22は、すずも含めた姉妹が久しぶりにそろって海猫食堂を訪れた場面です。ここでは店主
の二宮さんも、姉妹もそろって打ち解けた普通体の会話です。
本来なら店の主人は顧客には丁寧体・敬語を使うというのが『ハッピー・フライト』など
にも出てきた接客の基本だと思われますが、ここでは幼い時から近くの大人として姉妹を
親しく見てきたという関係が、接客のことばのルールを越えて存在すると思われます。-
そういえば同じ風吹じゅんが演じている『家族はつらいよ』の居酒屋の女将も主人公に対
して、普通体もまじえた親しい口調で話していました。
なお、この場合の二宮さんは女性文末「わ」なども使う、姉妹の大叔母や母の世代と同じ
ような普通体です。それに対して姉妹はもう少しフランクな中性様式中心の姉妹どうしの
会話と同じような普通体を使っています。
23は不調を感じて訪れた二宮さんを病院ロビーで見つけた看護師の幸が話かけるところ。
ここでは不調を訴える二宮さんに「どうなさったんですか」「それは、よくないですね」
と敬語や丁寧体で話しかける幸は、まさに看護師としての会話をしていますが、やがて二
宮から「店に来て」と言われると「懐かしいなあ」と心情を吐露するような、職業を離れ
た普通体に変わります。
24は佳乃で、弟とのトラブルの中で資産管理を相談され、地方信金行員として相談に乗る
場面で、客として食堂を訪れた時とは全く違う専門的な話を丁寧体でしていることがわか
ります。このように同じ相手に対しても話をする立場の違いによって話体をスイッチする
ということもあるわけです。特に職業的立場と私的な立場の違いによってことばが変わる
ということはよく見られます。


さて、まとめてみると

姉妹の会話スタイルを中心に普通体会話のバリエーションを見てきました。幸や佳乃は千
佳やすずと比べて多様な普通体会話をしているようです。
なかでも比較的高年代の大叔母や母に対して話すとき、彼女たちが使う女性形式「わ」
「かしら」などに合わせるかのように幸のことばにも「わ」などが現れるのは面白いこと
です。しかも、これら自己主張や、相手に対する反論・批判的な話題で出てくるようなの
も『家族はつらいよ』など他の映画にも見られた共通の傾向です。
が、それは一つには会話の相手が妹たちに比べて(少なくとも映画の場面としてはです
が)多様であるということもありそうですが、もう一つは相手や場に合わせて話体を決め
ている部分があるということだとも思われます。

普通体会話の文末表現のバリエーションについては小林(2020)で自然談話資料の女性の
会話について調査をしてみました。その結果、若年層に比べて年代が高くなるほど、使
している文末形式の種類が多くなっているということが分かりました。
自然談話では20~40代には「かしら」の使用は皆無。「わ」は使用例がありますが、その
数は限られています。いっぽう「わ」も「かしら」も50代以上には一定の使用がありま
す。これらはいわゆる「女性形式」と言われる文末で、現代ではその使用は高年代に偏っ
ていると言えます。なお同じ「女性形式」と言えそうな「動詞(形容詞)+の(なの)」
「体言や形容動詞の語幹に直接つく「よ」(花よ)(きれいよ)」疑問形「~の?」など
は年代にかかわらず使用がみられました。
また、「動詞(形容詞)+んだ(なんだ)」「体言・形容動詞語幹+だ(よ・ね)」「か
な」などのいわゆる中性的と言われる形式は若年層から高年層までよく使われています。
女性形式を使う高年代が中性形式を使わないということではないようです。
また、いわゆる男性的な形式とされる「か?、かね?、かい?、かよ」などのうち「か
ね」は比較的高年代に偏っていて、しかも「かしら」使用者は使わない、「だぜ・だぞ」
などは自然談話の女性はほぼ使わないが「だな」については年代にかかわらず使う人も使
わない人もいるという結果でした。
ここからわかるのは、若年層がほぼ中性形式の文末形式を用いて話しているのに対し、高
年層は女性形式・中性形式両方を使い、若年層に比べると使用する形式が多いということ
です。
現在の高年層は、『家族はつらいよ』や『海街diary』、そして『愛と希望の街』にも見ら
れたような「わ」や「かしら」を使う世代として、若い時から今に至っているのだと思わ
れます。ただ、それと同時に若年層と同じく「だよ」「なんだ」「かな」などの中性形式
も身に着けている。それが高齢になってからあらたに身に着けたものなのか、もともとそ
うだったのかはもう少し考え、調べてみる必要がありそうですが…。
若年層のことばの中性化ということが言われますが、実はどの時代にもいわゆる「女性形
式」文末を用いず話す女性もいたであろうことは『愛と希望の街』の正夫の母などにも見
るとおりです。そこに女性形式が参入してきた明治以後昭和ぐらいまでの時期のほうが女
性のことばの特殊性が見られる時代だったというべきかもしれません。その残照?として
の高年代女性の文末の多様性が現れているのが現代の女性のことばかもしれません。

【参考資料】


小林美恵子(2019)「映画『何者』にみる若者ことばの「中性化」」『ことば』40号
          pp.106-123    現代日本語研究会
小林美恵子(2020)「『談話資料 日常生活のことば』にみる女性のことばの中性化」
         『ことば』41号 pp.3-20 現代日本語研究会

『告白』にみる学校のことばー親疎表現を中心にー

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