【こんな映画】
監督:中島哲也 2010年 106分 原作:湊かなえ
林みどり・大島デイヴィッド義和(2021) 付加的呼称詞「さん」「くん」の使用とジェ ンダー中立性―実態と規範をめぐって― 『ことば』42号pp.72ー89 現代日本
出演:松たか子(森口悠子)
岡田将生(寺田良輝)
芦田愛菜(愛美・森口の娘)
西井幸人(少年A・渡辺修哉)
藤原薫 (少年B・下村直樹)
橋本愛 (北原美月)
木村佳乃(下村優子・直樹の母)
ある日、中学の女性教師・森口悠子の3歳の一人娘・愛美が、森口の勤務する学校のプールで溺死体になって発見されます。数ヵ月後の学年末、クラスの生徒たちを前にして、森口は教師を辞めることにしたと言い、「私の娘はこの1年B組の生徒二人に殺されたのです」と衝撃の告白、さらにある方法でその二人の生徒に復讐したと宣言します。
そして4月、クラスはそのまま2年生に進級。犯人のひとりA(渡辺修哉)はクラスのイジメの標的になっていました。そして、もうひとりの犯人B(下村直樹)は登校拒否し、自宅に引きこもります。新担任の寺田良輝はクラス委員長の北原美月とともに、毎日直樹の家に登校を促しに通うのですが・・・・・。
13歳の中学生の中に潜む残酷な心の闇が、登場人物たちのさまざまな告白により明らかにしなっていくようすを描き、子どもと母親の関係性、現代の子どもたちの生き辛さを、痛いほどに生々しく描き出した問題作として評価され、2011年の第34回日本アカデミー賞を受賞した作品です。原作は2009年の本屋大賞を受賞した湊かなえの同名小説で、それ以前2000年前後に、日本で多発して問題になった少年犯罪事件をベースにして描かれたとして、これも大いに社会的な話題になりました。
中島哲也監督は、1959年生まれ。テレビのCM製作で名を知られるようになり、『下妻物語』(2004)、『嫌われ松子の一生』(2006)『パコと魔法の絵本』(2008)などの作品があります。これより前の映画では実写とともに書割のような鮮やかな色づかいの背景の中での、非現実的な場面を織り込むポップな演出で話題を呼びました。この映画ではむしろ暗い場面中心で、リアリティのある映像を見せています。ただし、スローモーションの多用とか、さまざまな中学生たちの挿入映像、また最終場面などは様式化された劇的な演出がされており、他の作品とも共通する中島哲也の世界とも言うべき映像を見ることができます。
また、この映画では今や高校生になった名子役芦田愛菜が幼い可愛らしい姿で幼い愛美を演じており、橋本愛はじめ、現在活躍する若手の女優・男優陣が、中学生役として出演しているのも時の流れを感じさせます。
【ことばに関する着眼点】
この映画には二人の教師が出てきます。女性と男性、中堅と若手、性格も違う二人で、、生徒に対する態度や、かけることばの使い方なども対照的です。それぞれは、それなりの信念をもってことばを選んでいることが物語の中で示されますが、生徒たちの受け取り方は、必ずしも教師の側の意図したとおりには行っていないようです。そのあたりの食い違いがなぜ起こるのかを考えてみたいところです。
また、教師から生徒への呼びかけ、生徒どうしの呼びかけ、母から息子への呼びかけ方なども人間関係を示しているようで興味深いものがあります。中学生の少年から先生や、母親への話し方、また母親から息子への話しかけなどについても、人間関係を反映している面がありますので確認してみましょう。
なお、この映画は題名のとおり多くの部分が「告白」として、生徒たちに向かって、あるいは生徒から教師に向けてはいるけれど返事を求めないモノローグとして、さらにSNSなどでの語りとして話されています。その部分といわゆる相手のあるセリフの部分ではことばの使い方が違っている、そこも注意しておきたいところでしょう。
教師の話し方ー森口先生の丁寧体
映画は3月終業式、中学2年生の教室で担任の森口悠子が生徒に向かって話す場面から始まります。森口先生は、生徒たちに牛乳のカルシウムが思春期の肉体と精神に影響があるかどうかわからないが…ということから語り起こし、4月の身体測定時になんらかの変化が見られるでしょうと意味深げな話しをしたあと、その変化を見ることなく3月末で自分は仕事を辞めると生徒たちに告げます。これに対する生徒たちの反応は「え、まじでー?」「やったー!」というもので、彼らは決して真面目に静粛に先生の話を聞こうとはしないのです。
続けて、教育界で有名な「桜宮正義先生」を知っているか?と生徒に問いかけた森口先生はこんなふうに話を進めます。
(1)森口:桜宮先生に比べれば、わたしは物足りない教師だったかもしれません。
わたしが自分に設けたルールは二つだけです。
生徒たちを呼び捨てにしない、それからできる限り生徒と同じ目線に立ち、丁寧
なことばで話す。
友達どうしのようにタメ口でしゃべりあい、どんな相談にも乗る、そんな学園ド
ラマみたいなコミュニケーションを望む人には、わたしは冷たく映ったでしょ
う。ごめんなさいね、野口さん。真夜中に死にたいとか痩せたいとかメールを
送ってくれるあなたに親切に答えてあげられなくて。なによりわたしはあなた方
のことばを100%信じたりできません。
このことばに、生徒たちは騒然となるわけですが、そのあと森口先生は、生徒を信じられないわけ―パートナーであった桜宮正義のエイズ感染から死までや、彼との娘・愛美の出生から生徒の手による死というショッキングな出来事について「告白」し、そして愛美を殺した少年たちを、牛乳に混ぜた桜宮の血液によるエイズ感染の可能性にかけて復讐するという大変に悲惨でもあり、恐ろしい意思表明をします。
森口先生が「呼び捨てにせず、丁寧なことばで話す」というのは、日常的な教師としての「信念」によるもので、実際にこの場面でも先生はほぼ丁寧体基調で話しています。普通体になるのは「呼び捨てにしない」「丁寧なことばで話す」などのように、伝えたいことの中心をなす部分で、この場合は、言いたいことを端的に浮き立たせるために普通体が使用されているようです。このような「信念」は教師としては特異なものとはいえず、少なくとも授業など大勢を前にしてのいわばオフィシャルな場面では、そういう丁寧な話し方をする教師は多いと思われます。
実際に、かつて30名(女性14、男性16)の中学・高校のいろいろな教科の先生方(20代~60代)に、1人1授業時間ずつの録音を提供していただきデータベースとして、教師の授業のことばについて調べたことがあります。そこでの先生方の丁寧体の使用度(総発話数に占める丁寧体の割合)は平均34.2%、最高69.8%でした。34%というと少ないようにも思えるかもしれませんが、すべての発話の中には「うん」「なるほど」などの応答詞や、「よくできたね」「わかったね」などのように生徒に共感をもって呼びかける文、さらには「○○さん」「○○くん」などの呼名をする、どれもが多くは1語文かそれに近い短い文であるものも含まれていますし、もちろん先にあげた森口先生のように、伝達の根幹をなす部分を普通体で言い切るということもありますので、30%程度丁寧体が含まれる話は、印象としては決して乱暴な感じはしません。
丁寧体の割合が最も低かったのは30代の男性教師が44名全員男子という教室で行った数学の授業で9.8%、丁寧体比率20%未満は。全員男性教師でした。ただし男性の方が全般的に丁寧度が低いとも言えず、丁寧体の比率が50%以上に丁寧度の高い教師6名は男女半々でした。なお、女性の教師で丁寧度が低かった2人(20代25.9%、50代20.6%)はいずれも受講者のほとんどが男子という授業で、相手が同性かどうかよりも男子に向かう場合の方がことばがフランクになる傾向があるようです、高いほうで70%近く丁寧体を含んでいたのは通信制高校の2つのスクーリング授業で、教師はそれぞれ30代男性と40代女性でしたが、どちらも生徒は男女入り混じり、年代の幅も広く学齢期から教師と同じくらいかもっと年上の人もいるというような状況でした。
なお、授業の中で教師の発話量の割合が高い方が丁寧度も高くなるという傾向も見られました。授業時間の長さはほぼ決まっていますから、教師の発話量が多いということは先生が一人でしゃべる講演型の授業をしているということです。その場合には丁寧な話し方をするーいっぽう教師の発話量が少ないということは生徒の発話も多いということで、対話型の授業が行われていることが察せられます。その場合には互いに対人距離の調節も行いながらということになりますから、生徒の状況に合わせて先生もよりフランクな普通体での発話が増えるということになるわけでしょう(小林2007・2008-1)。
さて、このように教師の語り口としては自然なものと思われる森口先生の教室でのことばですが、生徒たちはあまり真面目に聞こうとはしません。また、映画を見ている観客には、森口先生の話し方はずいぶん他人行儀で、本人も言っているように冷たく聞こえます。生徒に復讐するという彼女の意図がこのようなことば(話体)選びにもに反映しているのです。つまり、同じような言語形式を選んで話したとしても状況や相手との関係により「丁寧で相手を尊重する」にも「冷たく突き放す他人行儀な」話し方にもなるわけです。
教師の話し方ー寺田先生の普通体・友だちことば
4月になり、森口先生の後このクラスの担任になる寺田良輝先生は、森口先生とは全く違ったことばのスタンスで生徒たちの前に現われます。初対面の挨拶でまず自分のニックネームを「よしてる=ウェルテル」と紹介し、「悩んでいるわけではない―「若きウェルテルの悩み」(ゲーテ)ですね。でも映画の中の生徒たちには通じているのかな?)―と冗談を言ったうえで「僕はまっさらな気持ちで君たちに向き合いたい」「みんなどんどん僕にぶつかってきてくれ」「みんなの兄貴にぼくはなりたいんだ」と普通体基調でたたみかけます。そして生徒を名前の呼び捨てや「ざっきー」「すぎじゅん」のようなニックネームで呼び、自分自身をも「先生」ではなく「ウェルテル」と呼ぶようにと生徒たちに言うのです。いわば、森口先生の言う「友達どうしのようにタメ口でしゃべりあい、どんな相談にも乗る、そんな学園ドラマみたいなコミュニケーション」を取ろうとしているのが寺田先生というわけでしょう。
現実の教師を思い浮かべると、ここまでフランクな物言いの先生は少ないかも…とは思いますが、寺田先生は純真な熱血漢で、生徒と親しくして生徒の力になりたいと願っているという点では決して悪い教師というわけではない、生徒たちも一部を除いては概ね、このような彼の姿勢や物言いを歓迎している(少なくともそのポーズをとっている)ように映画では描かれています。
しかし、このような寺田先生のあり方は北原美月のような生徒からは厳しく批判されます。寺田のことばは美月には「クラスの中で何も知らないのは寺田だけだ」と、非常に空疎・無配慮なものに聞こえてしまいます。特に自身が小学生のときに「美月のアホ」という語源からつけられた「ミズホ」というあだ名で、寺田から呼びかけられ、美月はその無神経さを許すことができません。
このような事件が起きた学校でクラス替えもなく学年が進むというのはあまり考えられませんし、子どもを校内事故で失って学校を去った前任教師の事情や、そこに「事故」とはいえ特定の生徒も絡んでいたというようなことをまったく知らされずに、後任の担任が決まるというのも現実には考えにくいことです(現に森口と桜宮ファンの寺田が知り合いであったことが、あとで森口の口から明かされます)。となると、寺田先生は美月が言うように「何も知らない」のではなく、事情を知ったうえで、あえてこのようなことばを使い生徒に寄り添って親しみを表し、その気持ちをほぐそうとしていると考えるべきかもしれません。寺田は決して生徒を下に見たり、ましてバカにしたりして、このような普通体・ニックネーム呼びかけのフランクな話し方をしているのではありません。それは、森口が時に敬語まじりの丁寧体を使い、「さん」づけで呼んで尊重はしていても、生徒を、決して目上として尊敬しているわけではないのと変わるところはないのです。
ポライトネス理論(Brown&Levinson)にあてはめてみると…
このような丁寧体・普通体の使い分けは「ポライトネス理論」にあてはめてみるとわかりやすいように思われます。
1987年、アメリカの言語学者ペネロペ・ブラウンとイギリスの社会学者スティーヴン・レビンソンによって提唱された「ポライトネス理論」の「ポライトネス」とは、英語の「Politeness」が意味する一般的な「丁寧さ」のことではなく、人間関係の距離を調整するための言語的な配慮(ストラテジー)とされ、敬語や丁寧体・普通体の使い分けがある日本語はもちろん、どのような言語にも普遍的にある考え方とされます。
ポライトネス理論の鍵となるのはfaceという考え方です。すなわち、人間には、人と人とのかかわり合いに関する「基本的欲求」として、「ポジティブ・フェイス(positive face)」と「ネガティブ・フェイス(negative face)」という二種類のフェイスがあるとされます。ポジティブ・フェイスとは、他者に理解されたい、好かれたい、賞賛されたいという「プラス方向への欲求」であり、ネガティブ・フェイスは、他者に邪魔されたり立ち入られたくない、つまり侵害されたくないという「マイナス方向に関わる欲求」です。私たちは他者と話すとき、相手にほめられたらうれしいし、否定されたり意にそわない要求を強くされたりすると不快です。相手に対しても「親しみの気持ちを感じさせたい」「ずかずか踏み込んで相手に不快感を抱かせないようにーそれはとりもなおさず自分に対しても跳ね返ってくる可能性がありますからー」などと気を使って話しています。
この「気を使う」としたのが「ポライトネス」で、相手のポジティブ・フェイスを満たすのが「ポジティブ・ポライトネス」、つまりほめたり、親しみを表して仲間内だけのことばを使ったり、タメ口をしたり一見相手を傷つけるような冗談ー実はそれほどのことを言っても自分たちは互いに許し合える仲だということになりますー、呼び捨てや愛称で呼びかけたりなどです。またネガティブ・フェイスに配慮するストラテジーが「ネガティブ・ポライトネス」で、丁寧な話し方をしたり、あからさまな表現をせず間接的に言う、呼びかけも直接には行わなかったり地位名称などで間接的に呼んだりします。相手を目上(距離を置いて踏み込まない)として使われる敬語や丁寧体もネガティブ・ポライトネスの一つということになります。ポジティブ、ネガティブ、どちらも相手に気を使っているのは同じですが、相手との距離の取り方が違う(「対人調節機能」などと言います)わけです。日本語でいうと、それぞれ「親近」「敬遠」(ただし「ネガティブ・ポライトネス」はネガティブとはいっても「否定」を表すわけではありませんので、日本語の「敬遠」というよりは「親敬遠?」という感じかも。相手を純粋に尊敬して使う敬語もネガティブ・ポライトネスです)ことになるのかもしれません。
『告白』では寺田先生ポジティブ・ポライトネスを目指し、森口先生はネガティブ・ポライトネスを用いているということになります。どちらも相手の生徒たちに「気を使って」いるのですが、その距離の取り方が違うわけです。ただ、ポライトネスというのはルールというよりストラテジー(方略)ですから、相手や場によって話者に選びとられるもので、ルールに従えば必ず成功するというわけではありません。相手や場に対して誤った判断をしたり、あるいは距離感が食い違ったりすると、方略は成功しません。また方略ですから、こちらと相手の意識のズレを利用して「気を使っているふう」を装いながら相手を陥れる?などということも可能でしょう。寺田先生の親しみの気持ちが生徒に伝わらないとか、森口先生が生徒を尊重している、と言いながら、むしろ突き放して冷たい威嚇的な内容をそこに込めるなどと言うことは、その例ということができそうです。
森口先生の普通体・寺田先生の丁寧体
教室で生徒の前に立つと丁寧体基調の森口先生ですが、生徒に向かって普通体で話す場面がないわけではありません。事件が起こる前、「成績優秀で、表向き内は何の問題もないが、時どき耳にする不気味なうわさが気になる」生徒として「修哉」は彼女の前に現れます。修哉は発明したという「びっくり財布」を森口に見せます。彼はこの発明を中学生の発明全国大会に出品したいと、担任の森口に書類への押印を求めるのです。
(2) 修哉:先生の専門は?
森口:化学よ。
修哉:電気とかは?
森口:それなら、あなたのお父さんの方が詳しいでしょ?
修哉:いいもの入っているから開けてみて。
森口:(財布をあけると火花が散る)あっ!
修哉:(笑って)すごいでしょ?
森口:わたしを実験台にしたの? こんなものを作って、動物でも殺すつも
り?
修哉:そんなことしか言えないんだ。
‥‥‥‥………………………
森口:(修哉が書いた出品のための書類を読む)「盗難防止びっくり財布、大
切なお小遣いを泥棒から守る」処刑マシーンじゃなかったの?
修哉:いいから、ここにハンコ押してよ。
森口:(読む)「社会に貢献する」
修哉:ああ、もう! そんなに危険って思うならどっちが正しいか審査員に判
断してもらおうよ。
ここで目立つのは修哉という少年の、先生になんらかのお願いをするという場面とは思えないような、乱暴ではないけれども、感情の直接発露しているような自己中心的なタメ口発話です。駄々っ子のように先生を威嚇さえするようなこの発話は成績優秀というこの少年のいびつさを示しているようでもあります。それに対して森口は決して好感情は持たず、むしろ修哉の言動に不安を感じ忌避感もありますが、「突き放す冷たい」丁寧体ではなく、「親近を表す」普通体で話しています。修哉の普通体がむしろ上から下への物言いのような脅しのような雰囲気を持つのに対し、ここでは森口はむしろ押され気味で、単に友達どうしが話すような普通体使用です。決して怒りゆえ、あるいは命令するための普通体ではないのです。ちなみに映画のクライマックスで、森口は修哉に電話をかけ、ついで姿を現して、彼のそれまで行為を批判・非難しますが、その場面では修哉への語りかけは丁寧体基調で行われます。それに対する修哉の応答は「黙れ!」「おまえなんかに何がわかる」「うるさい!」といったもので、すでに相手がだれかというより自分の感情のみを垂れ流しているという発話です。
(2)では、相手(生徒)が普通体だから、自分(教師)も普通体で話すということもあるでしょうが、むしろ森口先生が、事件前、普通の教師として生徒と「個人的な」「1対1で」会話をするような場合、普通体を使用していたことが示唆されています。これは一般的な教師のことば選びとしては特異なものではないと思われます。授業では丁寧体基調で話す先生が、生徒と個人的に話す場合や、クラブ活動で比較的少人数を指導するような場合に普通体基調にスイッチすることはよくあります。これも授業など公けの場での生徒との距離の取り方と、部活や個人的な会話での相手との距離の取り方が違うゆえかと思われます。
教師の生徒に対する距離の取り方は人(寺田と森口)によっても違いますが、同じ先生(と生徒)でも場によっても違うわけです。ちなみに寺田先生も教室場面で丁寧体を使うことがあります。
(3)寺田:このクラスにはいじめがあります。いじめられているのは渡辺修哉くんです。
昨日集めたノートにこんなメッセージが挟まれていた。勇気ある生徒から届いた
このメッセージを無駄にしたくない。これはいじめじゃない! 嫉妬だ!学年
でもトップを争う成績の修哉をうらやましがり、いやがらせをしているやつがい
る。修哉が勉強できるからって、自分が修哉より劣っているなんて思うなよ!
美月:(心内の声)そんなことだれも思っていない。
ある生徒が同じクラスの生徒にいじめられているーその話題を提示する最初の発話は丁寧体で行われます。次の「ノートのメッセージ」は事実の提示で普通体。以下は寺田自身のその事実に対する感想・判断(つまり気持ちの発露=一般的に普通体で行われることが多い.。このような言いかたは寺田の「熱血ぶり」を示すものでもあるでしょう)で、最後に禁止の命令形(普通体)でこの話は閉じられます。だれかのノートメッセージのみを根拠に、事実をさらに詳しく確かめることもせず、自分の判断や思いだけを述べる独りよがりな展開はただちに美月の反発を買うわけですが、それはともかく、最初に話題が提起されているところで丁寧体が用いられることによって、これからする話が、普段とは違う重要な問題だという寺田の改まりの気持ちが示されていることに注目したいと思います。先に人(相手)や場によって相手との距離感の違いが変わる(それがことばに反映する)と述べましたが、話題によっても変わることがわかります。
なお、森口ももちろん、寺田も生徒の親(保護者)と話すときには丁寧体基調です。
(4)寺田:どうですか?直樹くんの様子は。 少しでいいですから話ができませんか。
寺田は生徒にはポジティブ・ポライトネス、保護者にはネガティブ・ポライトネスで対しているわけで、これも教師としては一般的な話体選択ですが、話体がどうであれ(いかに丁寧に話そうとも)直樹の母、下田優子に受け入れられることは結局ありません。
生徒から教師へのことば
さて次は生徒から先生に対する場合のことばを見てみましょう。寺田先生のように先生が生徒に対してポジティブ・ポライトネスの普通体使用をする場合でも、「おとなの感覚」では生徒は、先生を目上として丁寧体を使うというのが一般的かと思われます。が、この映画の場合、先の森口先生の話を真面目に聞こうとせず「えー、まじで」とか「やったー」などという感情的な反応を示すシーンとか、修哉が森口に対して書類への押印を依頼した(2)のように、中学生は先生に対して敬語形式はもちろん丁寧体での発話もしないことが多いようです。丁寧体使用の場合でも、
(5)森口:ところで桜宮正義先生を知ってる人は?
男子生徒:あ、はいはいはい。この本(と見せる)書いたすっげー最高の先生で、な
んていうか、あの人の生き方はすっげー、
森口:本を出されたり、テレビに出演されたり、話題の熱血先生です。
男子生徒:そうそうそう。で、ほんとは不良で、退校処分になって世界中を回って、
帰ってきて教師になりましたね。
という具合で、この教室の中では、読書もする知的レベルが高そうな生徒で桜宮先生には「最高」と心酔しているようですが、どうもことばの上からはあまりそういう感じがしません。「はい」や「そう」の重ね、「すっげー」のようなくだけた表現、桜宮を「あの人」と呼ぶような生意気さ?にもそれが感じられます。
(6)男子生徒(水野):先生、具合が悪いので保健室へ行ってもいいですか?
(7)森口:この学校では自分のクラスの生徒でも、呼び出した相手が異性なら、別の同性
の先生に行ってもらうことになっています。このクラスの男子がわたしを呼び出
した場合A組の戸倉先生にいってもらうというように。
女子生徒(野口):そんなの担任として無責任だと思います。
女子生徒(佐々木):無責任だと思いますぅ!
森口:なるほど、そう見えるかもしれませんね。
(6)のように、自分の利益になるような申し出(お願い)をする場合や、(7)のような批判的な言辞では丁寧体の使用も行われるのですが、特に大勢で口々に疑問や感想、意見を述べる場合は以下の(8)のような、あからさまに相手に踏み込むような普通体での意見提示も行われています。
(8)女子生徒:なんで結婚しないの?
森口:たとえ生まれた子が(HIVに)感染してなくても、父親が感染者だとわかれば
差別は免れません。
男子生徒:差別する方がわりいじゃん。
森口:それは父親がいないことよりずっと子どもを苦しめる、それが彼(娘の父であ
る桜宮)の判断で、私もその意見に賛成しました。
男子生徒:子どもがかわいそうだろ。
女子生徒:父親失格じゃん。
男子生徒:逃げてるだけだろ。
この映画は10年以上前の2010年に作られていて、HIV(エイズ)患者に対する見方や、その差別に対する判断などは、映画の中で森口先生もちょっと触れてはいるのですが、現在ではだいぶ変わってきていると思われます。
映画の中の生徒たちは、殺人に関わった修哉や直樹以外についても、クラス内で起こった殺人事件の犯人(修哉)をSNSでつるし上げ、そこに加担しない生徒(美月)をいじめたり、、不登校になった生徒(直樹)に「ひとごろし」という隠し文字の入った「励まし」の色紙を送るなど、全体にかなりゆがんだ自己中心的・非社会的存在としての描かれ方がされています。精神的には成熟しない幼児的資質が残っている生徒が多い感じです。ですので、(2)の修哉や(8)のような発話の言語形式は極端に描かれて、現実とは若干距離があるかもしれません。
それにしても、『家族はつらいよ』や『万引き家族』でもそうだったように、一家の中の子どもー幼い存在ーが年長の両親や祖父母などの家族に丁寧体を使うことはなく、フランクな普通体で話すのが普通です。「敬語(や話体)」の習得の難しさもあるからか、日本語では少なくとも家族間の(もしくは他人の場合でも)幼い年下から年上・目上への敬語や丁寧体の使用に関しては治外法権的(特に期待されていない)に見られているようです。幼児や小学生あたりだと、その延長で日常的に付きあうことの多い担任の先生などに、「親しみ」の表象として普通体の、あたかも家族や友達に対するのと同じようなことば遣いをすることがあります。『告白』の中学生はその意味でも「幼児的存在」として描かれているのかもしれません。そして、その結果『告白』では「目上」である森口が丁寧体、「目下=年下」の生徒が友達に対するような普通体と、いわば敬語のルールから言えば一種の逆転現象が起きてしまっています。
学校言語として、低学年教科書などは「です・ます」の丁寧体でかかれていますし、先生も授業など公の場では丁寧体というわけで、保育園・幼稚園から小学校など集団教育の場で、子どもたちは作文などの書きことばから始めて、丁寧体を自分でも使う機会を得るようになります。その中で成長し先生との距離の取り方なども変わってきて、高校生・大学生ぐらいになると教師に面と向かって普通体(友だちことば)でしゃべるような学生はいなくなります(個人差や学校による差はあるかもしれません)。中学生というのはその狭間にあって「おとな―こども」の間にいる微妙な存在といえるかもしれません。
この映画の渡辺修哉も、相手がだれであっても会話では普通体基調ですし、映画の骨子をなす「告白」(修哉の場合はWebの動画に語りかけるという形式)も普通体ですが、みずから立ち上げたウェブサイトのトップには「電子工学好きの天才小学生がすごい発明をのせています」、書いた作文では「命の重さをしりなさい、そうおっしゃった森口先生のことばが忘れられません。愛する一人娘を不幸な事故で亡くされた先生の、その真実のことばは…」といった具合で丁寧体、敬語もきちんと使っています。つまり丁寧体や敬語の存在を知らない(使いこなせない)というわけではないのです。
また、北原美月の場合、森口先生への語りかけの形で行われる「告白」部分は丁寧体基調ですが、実際の会話になるとこんな具合です。二人が、不登校になった直樹の家に宿題などの届け物を持って訪ねて行き、直樹に母に拒否され門前払いされた後…。
(9)美月:先生。
寺田:ウェルテルだ。
美月:こんなことを続けても直くんは絶対学校に来ないと思うし、これって、逆に
直くんを追い詰める。
寺田:ミヅホ! 今が正念場なんだ。これを乗り越えれば光が見える。
「先生」と呼びかけて、ニックネームで呼ぶようにと言いなおされた美月は丁寧体で話すことも同時に封じられてしまったようで黙ってしまいます。寺田の空疎な希望に同意できない美月はこのあと直樹を不登校に追い込んだのは寺田自身だとして彼を憎み「死んでしまえばいい」とさえ、思うようになります。
彼女は、また森口先生との直接対話では、牛乳に血を「混ぜてないんですよね」と丁寧体で話しかけますが、その返答としての森口が桜宮に心酔する寺田を利用して修哉へのいじめが助長され、不登校になった直樹が追いつめられるように画策したのだという長い「告白」を聞かされ、ここでもことばを失ってあいづち的な返答しかできなくなります。そして最後はこんな展開…あくまでも丁寧体を崩さない森口と、自分の思いを直接的にぶつける美月の対比が際立つ場面です。
(10)森口:わたしは家族を失いました。
美月:修哉くんを…
森口:わたしは許しません。
美月:違うの。修哉は寂しいだけなの。振り向いてほしいだけなの、お母さんに。
別れた、自分を捨てた母親に自分を認めてほしくて、それで…。
森口:(笑う)
修哉の唯一の理解者として自身のうちにも共感を自覚していた美月は、それゆえに自分を唯一と考えたい修哉にとっては腹立たしい存在になってしまい、このあと、修哉に殺されてしまいます。
人の呼び方ー教師から生徒、級友どうし
先に、寺田の生徒に対する名前の呼び捨てやニックネームなどの呼称は、ポジティブ・ポライトネスとして行われていることを書きました。森口先生のほうは、生徒に対しては、女子生徒には「野口さん」「北原さん」、男子には「渡辺くん」のように名字(姓)で呼び男女で敬称を変えています。このような呼び方は、ジェンダー的視点から批判されることもあり、大学などに進むとこのような呼び分けは比較的少なくなっていき、男女ともに「さん」で呼ばれることが多くなっていくのではないか思われますが、小林(2008-2)の調査では、高校までは女性教師が生徒を呼ぶ場合を中心に、わりあい一般的な呼び方といえます。男性の教師の方は「さん」「くん」をつけるより男女ともに「姓を呼び捨てる」という傾向があるようです。林・大島(2021)によれば、多くの公共媒体(新聞・ニュースなど)で、原則的に小学生女児に対しては「さん」、小学生男児に対しては「くん」を用いるという方針を採用している(NHK 放送文化研究所2005:68–69、共同通信社2016:536–537、前田ほか2020:208)とのことで、20代男女に実施した調査でも、男性は職場の上司・先輩・学校時代の教師・同級生の父母などから「くん」で呼ばれたことがあり(「さん」もあるのですが)、女性にはほとんど「くん」で呼ばれた経験がないという結果だったそうです。
このような教師の生徒に対する呼称は、いわば「学校用語」として生徒にも影響し、級友どうしなどでそれほど親しくないという関係では互いに「名字さん」「名字くん」のように呼び合うことは多いと思われます。ただ、親しい関係では、あるいは親しくなるにつれ、「名前さん」「名前くん」さらに「名前呼び捨て」やニックネームなどで呼ぶようになります。実際に映画の中でも、北原美月は、最初「修哉くん」と呼んでいた渡辺修哉を最後の方では「修哉」と呼び捨てにするようになりますし((10)で、修哉に言及する際にも、最初は「修哉くん」と呼んでいた美月が、後半「修哉」と呼び捨てにしますが、これは後半では美月自身が修哉の代弁をするーより修哉に近い存在として自分を感じたことによるのでしょう)、級友の中でも比較的親しい関係にあったのでしょうか、下村直樹のことは「直くん」と呼んでいます。
なお、これに対して、直樹が美月を呼ぶ場面はありませんが、修哉のほうは「きみ」と呼んでいた美月を、最後に怒りにまかせて「おまえ」と呼ぶ場面があります。
人の呼び方ー4人の母
この映画には4人の「母」が登場します。まずは娘を亡くすシングルマザーの森口悠子、そして単身赴任の夫を持ちいわば女手一つで息子を育て溺愛し、その息子直樹に殺される下村優子、そして息子を捨てて離婚し、研究者としての道を志す修哉の母八坂亜希子、妻と別れたあと修哉の父が再婚した継母です。これら4人の子どもに対する話し方、特に呼びかけの対称詞はそれぞれに特徴的で、親子の関係をよく反映しているようです。
森口悠子が直接に娘の愛美に話しかけているシーンは1場面しかありません。そこで彼女はキャラクターつきのポシェットを買ってと駄々をこねる娘を厳しく制止します。
(11)愛美:買ってよ、買ってよ、ポシェット買って。
森口:ダメ。さっきトレーナー買ったでしょ。
ここで彼女は娘の名を呼ぶことはしませんが、このすぐ後、校内で娘が行方不明になったときには「愛美」と呼びながら探し回ります。独り親ながら頑張って子どもを育てようとする母の姿が見えるようです。教え子の生徒には「さん」「くん」づけですが、より近い関係として娘のことは呼び捨てにしています(緊急時ということももちろんあるでしょう)。
下村優子も夫が単身赴任中、直樹の姉である娘も家を離れて大学に行っていて、直樹と二人で暮らしています。彼女は直樹に過保護な育て方をしていて、勉強も部活動でもあまり成果をあげられず不登校になった息子を心配してはいますが、彼は本来できる子なのだーできないのは学校や教師、あるいは友人たちが悪い、と思っているようです。森口から娘の死に直樹が関わっていたことを言われても、息子に対して「悪い友達に騙されて手伝いをさせられて、かわいそう」という感想しか出てこず、森口を唖然とさせます。この母は直樹に直接に呼びかける時は「直くん」という愛称です。多分幼い頃からこのポジティブ・ポライトネスそのものという愛称で呼び、今も呼び続けているのです。
直樹が森口によってエイズに感染させられたかもしれない、と聞かされた優子は…自分のことは「お母さん」と言い、あくまでもいわば自分に都合がいいように直樹の行動を解釈します。
(12)優子:直くん、病院に行きましょ。
直樹:別にいいよ。
優子:なに言ってるの、直くんが死んじゃったらお母さんは…
直樹:ぼくは人殺しだよ。
優子:そんな、直くんはただお友達をかばって、あの子の死体を、
直樹:死体じゃない、気を失っていただけなんだ。それをぼくがプールに落とした
から。
優子:え?でもだって、それだってまさか生きてるなんて直くん、知らなかったん
だから。
直樹:違うんだよ、母さん。あの子は僕の目の前で目を覚ましたんだ、その子をぼ
くは…
このあと、絶望した優子は息子を殺して自分も死のうと、包丁を持ち出し、逆上した息子に逆に刺殺されてしまうのです。
修哉の母亜希子は、幼い修哉(3、4歳ぐらいでしょうか)を置いて家を出ていきます。
その翌年、修哉の父は別の女性と結婚し、やがて子どもも生まれます。この3人について修哉は「バカはバカと結ばれバカな子を生む」とにべもない評価をしています。そしてこの継母のことば…
(13)継母:パパと相談したんだけど、在庫置き場になっているあっちの家に修哉くん
の勉強部屋を作ってあげようと思うの。赤ちゃんが泣くと勉強の邪魔になっちゃう
でしょ。
あたかも修哉のためというような言い方で、義理の息子を体よく厄介払いしようとするこの女性の義理の息子への呼びかけは「修哉くん」といういわば学校用語的な、他人の子どもへの呼びかけと同じ、といえるものです。
さて、その息子を捨てながら、息子からは他者を傷つけてもその愛を得たいと思うほどに慕われる修哉の実母亜希子のことばもなかなかに興味深いものがあります。
(14)亜希子:あなたはとっても頭のいい子、あなたにはママの血が流れているんだも
の。
…………………………………………
亜希子:なんでわかんないの!なんでこんなこともできないの!あんたさえいなけ
れば…
…………………………………………
亜希子:これは全部ママに影響を与えたすばらしい本なの、将来絶対あなたの役に
立つはず。あなたにはママと同じ血が流れているの。ママと同じ才能を受け
継いでいるのよ。じゃあね(別れを告げ、出て行ってしまう)。
亜希子は、幼い息子に期待や希望を寄せていますが、同時に彼が自分の生き方の足を引っ張るような存在であることに苛立ちます。そして期待に添わない行動をとる幼い息子に罵倒を浴びせ、結局別れることになると、また自分の血が流れているから優秀だーとこれはまたすごい自信で、息子は結局このことばで呪縛されるかのように自滅的な道を歩むことになるわけですが…と、息子にたくさんの本だけを残して去っていきます。ここで亜希子は息子のことを「あなた」、苛立ち起こるときには「あんた」という代名詞で呼びます。一見、相手を自分から切り離して独立した人格として認め、対等に話しているかのようですが、相手の息子・修哉がまだ幼児であるということを考えると違和感を禁じえません。一方で自称は「わたし」ではなく「ママ」ですから、明らかに自分を修哉の母としての立場ととらえているわけで、野心ゆえに息子と向き合えず切り離しつつ、しかし縛られてもいる亜希子という人物の矛盾が表れているような呼称です。
なお、映画の最後のほうで森口悠子から修哉に、彼の母を装った電話がかかってくるというシーンがあります。
(15)森口(電話の声):修ちゃん、ママですよ。ごめんね、今まで寂しい思いをさせ
て。
修哉:誰だ!
森口(電話):ははっ(笑い声)、お久しぶりです。森口です。
爆弾はわたしがお預かりしました。単純な知能が作り出した単純な仕掛けで
解除するのは簡単でした。まあ、調子に乗ってウェブでペラペラしゃべるか
ら。
修哉:黙れ!
森口:黙りません。あなたへの復讐の件ですが、たとえあなたを殺してもあなた
は自分の命など少しも惜しくないようだし、殺す以外なにかいい方法がない
かと、ずっとあなたのウェブをチェックしていました。
すでに北原美月を殺してしまった修哉は、始業式の日、選ばれて壇上で作文を読んだ後、演壇の下に隠した手製の爆弾によって会場にいる生徒や教師をも巻き込んで自爆しようと図るのですが、押した携帯電話のスイッチは作動せず、そこに森口からの電話がかかってくるというわけです。ここで森口は、修哉が母からは決して呼ばれることがなかった「修ちゃん」という愛称で呼びかけて修哉を驚かせます。もちろん、それは「ふり」ですから、そのあとの森口は、「わたし」「あなた」と修哉に話しかけています。まさにかつて幼い修哉に亜希子がしたように、丁寧(端正)ではあるけれど、自分から相手を切り離して独立と言えば聞こえはいいけれどむしろ孤立を感じさせるような呼称の使用だと思います。
このように、この映画、さりげなく、しかしかなり意図をもって登場人物間の呼称を設定しているのだと思われます。
なお、もう一つ。この映画には、首都圏方言ではもっとも一般的と考えられる自称「おれ」を使う男性が一人も出てきません。修哉は逆上して森口や美月を「おまえ」と呼びますが、彼も自称は「ぼく」です。ー桜宮先生や寺田先生、修哉の父はもしかすると違った場面では「おれ」の使用者であるかもしれないのですが、少なくともこの映画では「おれ」と話すような大人っぽい、男としての側面は見せていないわけです。これは現実の言語使用を如実に示したというよりは、男性不在の社会としてこの映画の世界を描き、それゆえにある種のいびつさやゆがみを強調した映画の意図があらわれたものとみることができるように思われます。
【参考資料】
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小林美恵子(2007) 授業談話データベースによる実態調査ー授業の発話の丁寧度につい
てー『ことば』28号pp.41-52 現代日本語研究会
小林美恵子(2008-1) 授業談話データベースによる実態調査ー授業の構成要素と丁寧度
ー紀要』pp.80-89東京都立国際高等学校
小林美恵子(2008-2) 授業談話データベースによる実態調査ー教師は生徒をどう呼ぶか
ー『ことば』29号pp.54-72 現代日本語研究会
NHK 放送文化研究所編(2005)『NHK ことばのハンドブック(第2版)』NHK 出版
語研究会
前田安正・関根健一・時田昌・小林肇・豊田順子(2020)『マスコミ用語担当者がつ
くった 使える!用字用語辞典』三省堂
れいのるず・秋葉かつえ(2019) 明治俗語革命期の「僕」と「小生」 ―In Reference
to the First
Person Pronouns in Natsume Soseki’s Letters―『こと
ば』40号 pp.178―195 現代日本語研究会
Brown,P and Levinson,S. (1987) Politeness:Some universals in language usage.
CUP.