2020年7月21日火曜日

『愛と希望の街』にみる ことばの変化 60年


【こんな映画】

監督:大島渚  1959年 62分


出演: 藤川弘志(正夫・中学3年) 千之赫子(秋山先生・正夫の担任教師)  富永ユキ(久原京子・高校生)  渡辺文雄(勇次・京子の兄/光洋電機社員) 須賀不二男(京子と勇次の父・光洋電機重役) 望月優子(正夫の母)伊藤道子(保江・正夫の妹)

大島渚監督(1932-2013)の監督デビュー作。当時の貧富の格差社会の中で貧しく抑圧された人々の苦しみと権力への抵抗意識を描いています。


1950年代の東京下町。街角で鳩を売る少年がいます。
貧しい母子家庭に育った中学3年生の正夫は、病弱な母を助けて家計を支えるために鳩を育て、靴磨きをする母と並んで鳩を売ります。売った鳩は帰巣本能によって買主のもとから正夫の家に戻ってくることがある。すると正夫は再びその鳩を別の人に売る。不正とは知りながら、貧しさの中で考え出した商売でした。
学校では成績優秀な正夫に目をかけ、滞る学校費用を立て替えるなどして、なんとか彼の学業を助けようとする若い女性教師、担任の秋山先生がいますが、彼女ももちろん、正夫のこの商売のことは知りません。正夫の母は正夫の高校進学を強く望んでいますが、貧しさはいかんともしがたく、正夫は就職しようと考えています。

ある日、弟の病気見舞いにと、正夫から鳩を買うのが光洋電機という会社の重役令嬢で、高校生の京子です。天真爛漫で積極的な京子は、貧乏な正夫に心惹かれ同情します。正夫を家庭訪問した秋山先生と偶然会った京子は、都内の中卒生は採用しないという光洋電機の方針を聞かされて憤慨、父や兄に話し秋山先生と光洋電機の間を取り持って都内の中学生も採用試験を受けられるようにと働きかけます。こうして正夫は母の反対を押し切って光洋電機の採用試験を受けることになりました。
成績優秀で合格は絶対と思われていた正夫はしかし不合格となります。実は身元調査によって、彼が不正に鳩を売っていたことが明らかになってしまったのです。
正夫の就職運動の過程で、秋山先生と、京子の兄勇次はひかれあい付き合いが始まっていましたが、秋山先生は貧しさゆえの正夫の行為は立場が変われば自分もしたかもしれない、それが許せない勇次とは付き合えないと別れを告げます。そして事実を知って怒り絶望する京子は…

62分と、比較的短いモノクロ映画ですが、少年やその家族、先生や友人という日常を描きながら、全編に緊迫感と主張がみなぎる、迫力を感じさせる印象深い作品です。

【ことばに関する着目点】

本ブログでは、おもに2000年以後、この20年ぐらいの間に作られた現代映画のセリフを通じて、その時々の社会のようすや、そこで使われることばについて見ています。それらの作品のことばとくらべて、今から60年前、まだ日本がようやく戦後から高度成長委への入り口に差し掛かった時代の日常の日本語は、もちろん今につながる「現代語」ではあるのですが、形式面でも運用のされかたなどでも、現代の日本語とはけっこう違った様相を示しているようです。
正夫少年(中学生)のことば、京子や秋山先生など若い女性のことば、そして秋山先生と勇次にみられる恋人どうしの会話などを中心に、現代のことばと60年前のことばはどうちがうのか、それはなぜなのかなどを見ていきたいと思います。

中学生・正夫のことば

映画の中で正夫がおもに話している相手は秋山先生、京子、そして母や妹など家族ですが、いずれの場合も大変穏やかで丁寧な口調であるのに気がつきます。

映画のはじめのほうで、中学校にペットの鳩を持ってきた生徒を、秋山先生が注意し、「放してもうちに帰れるわね」と確認して、鳩を窓から放す場面があります。次の秋山先生のことばからも、この時代、鳩を飼うということが、一種のブームとなっていたらしいことがうかがえます。

 1.秋山先生:あたしがね、学校に鳩もってくるのにあんなにうるさいのはね、鳩飼える
    子と飼えない子があるからよ。君まで鳩、うらやましがっちゃ、先生悲しいな。
   正夫:ぼく、鳩持ってます。
   秋山:(意外そうに)そう。
   正夫:あの、ワークブックの立て替えていただいた分です。
   秋山:いいのに、いつでも。
   正夫:鳩はいつか競輪でもうけたお客さんが磨き賃に1000円くれたとき、母が思い
    切って買ったんですよ。妹は少し頭が遅れてて、独りぼっちなもんだから。
   秋山:そう言ってたわね。お母さんも大変ね。君の進学のこと、もう話し決めた?
   正夫:まだです。
   秋山:来週にでも一度おうちに行ってみるわ。その時、鳩や妹さんの絵も見せても
    らおうかな。

20代の女性教師、秋山先生は正夫に対して気軽な調子の普通体で話していますが、答える正夫は、先生に対して話しているからということでしょう。すべて「です」「ます」の丁寧体、「立て替えていただいた」と謙譲語も使って折り目正しい話し方をしています。

現代の中学生が先生に対して話していることばと比べてみます。
次にあげるのは『告白』(2010中島哲也監督)で、中学生修哉が自分が発明した「びっくり財布」を発明コンクールに出品したいと、担任の理科教師、森口先生(30歳ぐらいの女性)に推薦を頼む場面です。

 2.修哉:(財布を見せる)いいもの入ってるからあけてみて。
   森口:(財布をあけるとバチッと火花が飛ぶ)あっ。
   修哉:(笑って)すごいでしょ。
   森口:わたしを実験台にしたの? こんなもの作って、動物でも殺すつもり?
   修哉:そんなことしか言えないんだ。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   森口:(修哉の書いた説明を読む)「盗難防止びっくり財布、大切なお小遣いを泥
    棒から守る」 処刑マシーンじゃなかったの?
   修哉:いいから、ここにハンコ押してよ。
   森口:(さらに説明を読む) 「社会に貢献する」
   修哉:ああ、もう そんなに危険って思うならどっちが正しいか審査員に判断して
    もらおうよ。

修哉は森口先生にハンコをもらい、コンクールに出品した作品は賞をとりますが、その
装置をキャラクターのついたポシェットに仕込み、森口の幼い娘を死に至らしめる原を作
ります。頭脳的には優秀、しかし幼い時に捨てられたと思い込み、母に対してゆがだ執着
をもつ傲慢な少年として設定されている修哉ですが、この場面はまだ映画に描れる事件が
起こる前で、修哉も「普通の生徒」として先生と話しています。
自分の作品を推薦してほしいと先生にお願いをする場面ですが、それにもかかわら「で
す・ます」の不使用、「そんなことしか言えないんだ」という面と向かっての批判、「い
から~してよ」「~してもらおうよ」というような依頼や勧誘が使われていて、あたかも友
だちにしゃべるようなことばです。もっともこのような甘えぶりは友だちに対するというよ
り、母親などに高飛車にでるような幼児性の発露と見るべきかもしれません。
告白』にも先生に対して丁寧体で話す生徒や場面がないわけではありませんが、授業中の
質問場面なども含めて先生対する友だちことばというのは、60年前には見られなかったこと
のように思われます。

なお、正夫は街で鳩を飼う客としての京子に出会った初対面の時にはもちろん、最初から
の置けない話し方をし、親しく正夫に対する京子とだんだん親しくなっていった後も子に
対しても丁寧体で話すことをやめません。

 3.街角で鳩を売る正夫に京子が話しかけます。
   京子:なあに?これ。
   正夫:鳩です。
   京子:鳩はわかってるわよ。かわいいわね?ね、これ見せびらかしてあるだけ?
    売るの? いくら?
   正夫:700円です。

 4.秋山に頼まれて、京子は買った鳩を放し、鳩は正夫のもとに戻ります。お礼に妹
   の描いた絵をもって正夫は京子の家に行きます。
   京子:いらっしゃい。
   正夫:こんにちは。
   京子:鳩感心におうち覚えてたわね。薄情な持ち主なんか忘れちゃえばいいのに。
    ね、ほんと、どうして来なかったの?遠慮してたの?おかしいな(笑う)。
    さ、あがんなさいよ。
   正夫:いいんです。
   京子:あら。
   正夫:鳩ありがとうございました。
   京子:おかしいわよ。そんな言い方。
   正夫:でも、お礼を言いにきたんです。

 5.京子は正夫から家を聞き出し、正夫の家を訪ねていきます。
   京子:あんたが書いた地図、ずいぶん間違ってたわ。探すの大変だったのよ。
   正夫:あれはウソ書いたんですよ。
   京子:どうしてそんなことすんの?どうして? よー、どうしてよー。
   正夫:こんなとこへ来てもらうの恥ずかしかったんですよ。
       ・・・・・・・・・・・・
   京子:(雨の中濡れて帰る正夫の母に会って)大丈夫かしら?秋の雨って体に行
    けないっていうけど。
   正夫:芯が丈夫だから平気だよ

 6.正夫は光洋電機の就職試験の後、京子に報告に行きますが、入れ違いに京子は正
  夫の家に。京子に会えずに戻った正夫に、京子は正夫の母が倒れたと知らせます。
   京子:試験うまくいった?
   正夫:おうちに報告にいったんです。
   京子:そう!(笑う)なんかいるもんなあい?
   正夫:今はべつに。あったら頼みに行きます。
  
 7.すべてが終わった後、街で再び鳩を売る正夫のところに京子がやってきます。
   京子はここで初めて、正夫が鳩を繰り返し売っていたことを知ります。
   京子:正夫くん! どうすんの?
   正夫:売るんだよ  
   京子:また?
   正夫:ええ。
   京子:ひどいわ。どうしてあたしに相談してくれなかったの?お金がいるんだ
    ったら。試験に落ちたの恥ずかしかったの?あれはあなたのせいじゃないの
    よ。会社がいけないのよ。(後略)
   正夫:すいません。でも鳩を売るのこれで二度目じゃないんです。
   京子:え?
   正夫:何度も売りました。鳩は売られても、買った人の不注意でたいてい逃げ帰っ
    てきます。それをまた売るんです。
   京子:それ、詐欺じゃない、まるで。


3は初対面の客と売り手という関係ですから当然として、4でも正夫は京子に「おかしい
な」と言われつつ、相手の行為に感謝する一歩へりくだった態度を崩しません。
そして5、ここでも最初は正夫は京子に丁寧体ですが、「貧乏な家を見られるのがはずか
しかった」といわば鎧を脱いで、ちょっと本心が吐露されます。京子に好意は感じつつ
も、彼女の無邪気な同情や哀れみを受けたくないという矜持が、正夫の相手との距離をと
った丁寧体に現れているのだと思われます。でも率直な京子の親愛感は二人の距離を縮め
のでしょう、5の最後では一緒に正夫の母を心配してくれる京子に対して初めて普通体の返
事が出てきます。
正夫の京子に対する普通体は映画の中でも、ここと、あとの7、自分が返した鳩を売る正
に驚く京子に吐き出ように荒々しく「売るんだよ」との2か所しかありません。7.でも
すぐに丁寧体にもり、こここそは、もう完全に相手との関係を断ち切り無関係な他人に戻
るという、正夫の決意が現れているような丁寧体の発話です。

もちろん正夫も母や妹などの家族に話すときには普通体を使っています。幼い妹、保江は
遊び仲間もなく、いつも一人で死んだ小動物、ネズミや鳩などの絵を描いています。

 8.正夫:保江、汚いもの、描(か)くなよ。
   保江:いや。
   正夫:さわるなよ。病気になるぞ。
   保江:にいちゃん、鳩、いないよ。どうしたの?
   正夫:鳩のね、かあちゃんのところに行ったんだよ。
   保江:いつ帰ってくる?
   正夫:さあ、三日もすりゃあ、さ。

 9.就職試験の朝、正夫を高校に行かせたい母は、まだ反対しています。
   母:どうしても受けに行くのかい?
   正夫:ああ。
   母:強情っぱり。親の言うことも聞かないで。
   正夫:母ちゃんの言ってることは無茶だよ。
   母:なにが無茶かえ。どんな無理しても高校だけは行かすっていうのが。
    なんのために今まで苦労してるのかわかりゃしないよ。
   正夫:夜間に行くっていってるじゃないか。

 10.就職試験の日の夜。母は倒れ、夜中に目覚めます。
   母:まだ起きてたの?
   正夫:僕が帰ったら注射打って よく寝てたよ。苦しい?
   母:ううん。試験どうだった?
   正夫:ダメだよ。おっこったかな。
   母:そう。そんなに難しかった。
   正夫:なんだ、受かった方がいいの?(母ため息をつく)ウソだよ、よくできた。
    きっと通るよ。
   母:病気の親をからかう人あるかえ(笑う)。
   正夫:笑えるくらいなら大丈夫だよ。僕が働くからさ。しばらくのんびりしてなさ
    いよ。ね。夜間の高校だって行けるんだし、きっと偉くなるよ。母ちゃんの思
    ってる通りになるよ。安心してた方がいいよ。(母、泣く)なんだ、涙なんか出
    して、寒いの? いやだな。拭いてあげようか。母ちゃんの声を聞いて安心した
    よ。寝ようか。

特に10、現代の中学3年生に、親にこんなことばをかけられる息子がいるでしょうか。
相手に寄り添うような「かな」、疑問は「か?」ではなく「の?」、自分のことを話し安
させるときには、きちんと念押しながら呼びかけるかのような「よ」、そして母親か優しい
年上のおが子どもに言うような「なさいよ」など少年の話しことばとは思えないような
口調です。
貧しい社会の貧しい暮らしの中、働く貧しいシングルマザーの母を支え、自ら生計の道を
す息子が、おとなびてしまう哀しさともいえるかもしれませんが、それにしてもすっか
の保護者のような、ちょっと上から目線ともいえるような優しい普通体。こういうこばを
かけられた母はうれしいのか、それとも自分のふがいなさを感じるのか…、「母」立場と
しては複雑な感じですが、これも60年の時を経たからこそ感じることで、当時はんな息子
もいなかったわけではないのかもしれません。

 
秋山先生と勇次ー若い男女の会話

中学生、正夫のことばに負けない丁寧さがみられるのは親しい若い男女のことばです。
秋山と勇次は初対面では仕事上の関係、自分の生徒の就職を依頼する立場と、それを受け
れるかどうかを決める会社側の代表として出会いました。3では秋山は直接的には勇次の父
に話しかけているので「ございます」「いたします」などの敬語も使い、大変丁寧「おと
なの話し方」をしています。


11.勇次:お待たせしました。父です。こちら労務課長(と紹介する)。
   秋山:秋山でございます。お嬢様に大変勝手なお願いをいたしまして。
   勇次の父・久原:どうも変わった娘でしてなあ、ときどき突拍子もないことを言い
     出す。まあ、できることならお役に立ちたいが、二人とよく相談なさってみて
     ください。

12.秋山:本当にありがとうございました。それにわざわざこんなところまで知らせ
      にきいただいて
   勇次:いや、実はあんなに熱心な先生の働いていらっしゃる学校を見ておきたかっ
     たんですよ。もう授業はお済みですか
   秋山:はい。
   勇次:じゃ、お送りしましょう



 13.秋山:ごめんなさい、こんなところまで押しかけてきて。でも、あなたのお仕事
     の場所でお礼がいいたかったんです。
   勇次:なんですか。
   秋山:あたしの生徒、よくできたらしいですわ、試験。
   勇次:へえ、問題やさしかったのかな。
   秋山:あら。ご存知ありませんの
   勇次:僕は出題には関係してませんよ。それでなければ、こうしてあなたと会って
    いられない。
   秋山:汚職になりますわね



14.秋山:どうしてそんなに一般論ばかりおっしゃるの
   勇次:わかりませんか? 僕はね、こんなことにこだわって、もっと大事なことを
    台無しにしちゃうのがいやなんですよ。
   秋山:あたしにとって今、一番大事なことは自分の生徒が試験に落ちたということ
     すわ。だって、あたしは先生という職業を選んだんですもの。あなたがそう
     いう不合理なものの見方のために犠牲になる子どもを見て平気な方だと思いま
     せんでした。
   勇次:だったらわかってくれなきゃ、僕が今どんな痛みを感じて、こんな一般論を
     言っているか。
   秋山:わかりません。だってあなたは結果的にあの子が不幸になることを見過ご
     しになったですもの
   勇次:それは言いすぎです。
   秋山:失礼しますわあたし興奮してますから、なに言い出すかわかりません。
         ・・・・・・・
   勇次:お送りしましょう。そんな帰り方はしないでください。
   秋山:あたくしもしたくはありませんでした。


15. 勇次:じゃ、僕たちの間はもう終わりだって言うんですか?
   秋山:ええ。
   勇次:どうして。
   秋山:だってあたしたちの間にはどうしようもない問題が横たわっています。
     (中略)
     時と場合によってはあたしも鳩を売るかもしれません。
   勇次:鳩を売る?
   秋山:ええ。なにかそれに似た、世の中では許されなくても生活のために仕方がな
     い行為をするかもしれない。あなたはそれを許さない方ですわ
   勇次:僕は許します。鳩を売らなければやっていけない世の中だってことを知って
     るつもりです。
   秋山:でも、あなたは鳩を売った子をお許しにはならなかった
   勇次:そりゃあ、
   秋山:いいえ、あなたのお気持ちはわかります。でも、立場がそうさせてしまった
     んですもの。これからだって、あなたの立場はきっと…
   勇次:立場を越えて、なんとか僕たちは結びつけると思ってたんだ。前から言おう
     と思ってました。
   秋山:おっしゃらないで


11~15は秋山と勇次の付き合いの全経過?です。描かれるのはほとんどは正夫の就職に関連
する話題ですが、二人はだんだん親しくなり、しかし「鳩を売る」という問題で決裂、秋山
は勇次に別れを告げて去っていきます。

11は、勇次の会社・光洋電機が今までしていなかった都内の中学生の採用試験を始めること
になったと秋山に知らせにくる場面。秋山も勇次もで「です・ます」に敬語もまじえて丁寧
に話しています。
12は採用試験後、教え子の様子を報告し、お礼にきた秋山先生。秋山と勇次二人の関係
のあたりが親しさの頂点といっていいでしょう。秋山は「です・ます」で話していまが、
ここでは「ですわ」「ますわね」と文末に女性専用形式といわれる終助詞「わ」ね」な
どをつける言い方が出てきます。今まで頻出していた敬語は「ご存知ありませの?」の1か
所だけになりました。「汚職になりますわね」というのは秋山の精一杯の冗でしょう。
13は一転して、正夫の不合格通知が届き、驚いた秋山先生は、勇次にその理由を問いただし
ますが、勇次は一般論ばかりでなかなか真実を話そうとはしません。いらだつ秋山は「どう
して一般論ばかりおっしゃるの?」と敬語の言い切り(普通体)で勇次を詰問。ここでは秋
山先生はまだ正夫の不正の事実を知りませんから、勇次の行為を一方的に責めています。
ここで目立つのは「~ですもの」という現代ではあまり聞かれなくなった終助詞です。
「~ですから」と同じように「もの」は理由を言いながら、自分の状況を説明し主張する
脈で使われますが、「から」にはない、相手の同意を求めたり要求を通そうとしたりするい
わば理由に含まれる感慨ー甘えた態度で訴えたり不平不満を言ったりすることがときに使わ
れることが多い(山口他編2001)とされることばです。「~だん」と形を崩すともっと甘
えた感じで幼児などが「これ、ぼくのだもん!」と自己主張る感じになります。後にあげ
る22では、京子が涙を流した後で「先生、お話上手なんだもん」と秋山に少し甘えるように
言っています。
「だもん」や「ですもん」を成人の男性が言うと、甘えた感じがより強調されて話者の特
なキャラクターを示すことにもなる、という意味でこのことばは、女性専用形式といっても
いいでしょう。
秋山はここで決して勇次に甘えているわけではありませんが、このような女性専用形式を
いることによって、相手を批判しつつも少し甘い雰囲気が醸し出されてしまうことは否定で
きません。女性専用形式はそういう意味において批判や反論、相手に対する強い主張や要求
をするにはあまり向いてないようです。
14でたびたび使われる「あたし」という自称詞にも同じことが言えます。改まった場では使
われない、相手との親しさを表す自称詞とも言えますが、そのくだけた感じは主張、特に批
判においては強さを示せないという感じがします。この場面、最後にもう話は終わりだとい
う決意を示して帰ろうとします。止める勇次にを振り切って言うとき自称詞はあたくし」
に改まり、その音調も低音になり、すごみさえ感じさせるのです。
15で秋山は勇次に別れを告げ、去っていきますが、ここでも今まであげてきたような「で
もの」「ですわ」「あたし」、それに敬語の言い切り(丁寧体不使用)などをちりばめ
とばを使って決意を示しています。一方、勇次は秋山との会話では終始、丁寧体基調で、
や距離を感じさせるようなことば遣いを崩していません。


勇次の丁寧体

ここで勇次のことばについてちょっと見ておきましょう。
秋山先生に対しては少し他人行儀―仕事の延長的といってもいいような勇次の話し方でした
が、家ではどうでしょうか。


16.久原(父):ずいぶんご馳走が残っているなあ。
  勇次:ええ、京子のやつが食べませんでしたからね。
  久原:どうした? 京子。(京子冷蔵庫から飲み物を取り出す)
  勇次:あ、だめだよ。ハンスト中にいいのは水だけだよ。
  久原:ハンスト?
  勇次:卒業生採用してくれってきたでしょう。あれ、断ったら怒ってるんですよ。
    一労務課員のおれに言ったって無理だよ。重役に言ってくれ、重役に。

同じ場にいる父と妹に対して、勇次ははっきりと文体の使い分けをしています。下線部が
に対することばで、これは完全に普通体ですが、下線のない父への話しかけには丁寧体が使
われています。直接の話し相手がかわると文体のスタイルもスイッチするわけで『家族はつ
らいよ』(2016山田洋次監督)には、平田家の長男幸之助が家族会議の席上、父に向って丁
寧体で話す場面がありました。ただ、この映画ではまだ、未婚で同居している次男や、結婚
して家を出た娘が父に丁寧体で話すことはありませんでした。

17.幸之助:どうなんですか?お父さん。
      ・・・・・・・・・・・・・
   周造:おれが頼んだわけじゃない。
   幸之助:ぼくたちだって喜んで集まってるわけじゃないんですよ。こんな天気のい
    い日に家族会議だなんて。


また、『歩いても歩いても』(2008是枝裕和監督)にも、別居して結婚している息子、良
が久しぶりに帰宅して父と話す場面で、息子の丁寧体発話があります。  


  18. 父:ほら、あの、高松塚の壁画、どうなったんだ?修理は。
    良多:ああ、修復ね、修理じゃなくて。あれは古墳をそのまま残すか飛鳥美人の
    国宝の壁画あるでしょ?切手にもなった、あれを守るかでずっと議論してたん
    よ。で、結局文化財の現地保存主義を覆す異例の判断を文化庁がして、ま、解
    体を決めたんですけどね、まあ、10年はかかりますかね

  19. 父:(良多の息子敦に)医者はいいぞ、やりがいのある仕事だぞ。
   良多:(敦に)向うで遊んどいで。
やめてくださいよ、ヘンなこと吹き込むの。医者になんかしませんからね。
   父:どうせあと20年も待てやしないよ。
   良多:そんなこと言われたって。
   父:お前に言ってんじゃないよ。
   良多:わかってますよ。そんなこと。


  20. 良多:医者がそんなに偉いんですか?広告だってりっぱな仕事じゃないですか
 兄さんだって生きてたら今頃どうなってたか、分かったもんじゃないですから
 人間なんてさ。

21. 父:仕事、うまくないのか?
    良多:いや、別に。なんで?
   父:うん、いや、ならいい。
   良多:心配要らないよ。もう昔と違うんだからさ。
   父:お前、たまには電話して、母さんに声だけでも聞かせてやれよ。
   良多:かけると延々と聞かされるんだよなー、グチを。
   父:それくらい我慢して聞いてやれよ。
   良多:それはおれの役目じゃないでしょう
    頼むからさ、二人でどうにかしてくれよ、おれを巻き込まないでさ。
    ああ、どうでもいいけど、とうもろこしの話、あれ言ったの兄さんじゃなくて
    おれだからね。 

この横山家、父は開業医で、後継ぎの兄に期待をしていましたが、彼は15年前に海でおぼ
れる子どもを助けて水死、この映画は兄の命日に実家に集まった家族を描きます。
良多は兄とは違い絵画修復の道を選びましたが現在は失業中、最近小学生の子どもを持っ
女性と再婚しました。父にとっては意に沿わない生き方をしている息子ということで、良多
身が父との接触を避けてきたこともあり、互いに確執をもっています。18では父からの少
し的外れな質問に良多は一生懸命答えますが、この後すぐに父は話をそらせてしまいまい
す。
19、20はの発言や態度に対しての良多の不満が吐き出される場面で、ここまでは良多は
に丁寧体基調で父に対しています。21は、その後父の老いや、その中で口には出さない後悔
や不如意があることを知った良多が少し心をやわらげ、歩み寄ったところ。ここでは良多は
通体にシフトしています。ただ、父から、母の愚痴を聞いてやれと言われ、それ夫婦の
題だと思わず言い返す場面では「~でしょう」と畳みかける丁寧体に(「でし」と短く
言う場合は普通体に準じた軽い言い方になりますが、ここでは「でしょう」とちんと語
を伸ばし厳しい改まりの雰囲気をだしている言い方です)。
良多の場合、母にはほとんど丁寧体は使いません。息子の車で買い物に行くのが夢だった、
と言外に息子のふがいなさを責めるかのような発言に「乗せてあげますよ、車なんかいくら
でも。」と言い、姉に「免許も持っていないのに」とバカにされるシーンぐらいでしょう
か。また、良多の姉は結婚して家を離れていますが、父にも母にも、敬語や丁寧体などは一
切使わないくだけたフランクな話し方をしています。

こうしてみると、成人した息子の、父への丁寧体というのは、独立した大人としてのある
離を示すものと言っていいかと思われます。その源泉は多分、親子間の上下関係が明らかで
あった前時代の習慣に発するものでしょうが、現代社会では親子の距離は近くなり、上下関
係よりも親近感によってスピーチスタイルが選ばれる、その中で大人になった息子の父への
距離感、特に現代では反発や批判意識がある場合に丁寧体が出てくるといっていいとも言え
そうです。
では、勇次の場合はどうか、この久原家でも妹の京子は父に丁寧体話したりはしていま
んから、親子の距離は上下関係だけに基づくとは言えそうもありせんが、ただやはり独立
した大人として父が経営陣であるような会社の一員でもあるという上下意識も含んだ距離感
が、親しい会話をする場合にも父に丁寧体を使うという文体選びに反映しているように思わ
れます。特に批判や反発の文脈ではなくても丁寧体が普通に使われています。

秋山先生の普通体

勇次と話すときには女性専用形式や敬語を含むかなり丁寧な話し方をしていた秋山ですが、
1で教師として生徒に話すときには、普通体でくだけた会話をしています。終助詞も「~か
らよ」「わ」「わね」のような女性専用形式だけでなく、「悲しいな」「~かな」などの中
性的な形式もでてきます。
次は、正夫の家庭訪問の帰り、偶然に京子に会い、誘ってお茶を飲む場面。秋山にとって
子は初対面の年下の同性で、教え子の友だちということになります。


22.秋山:ねえ、お急ぎ
  京子:いいえ。
  秋山:じゃ、ちょっとお茶でも飲まない?
   ・・・・・・・・・・・・
  秋山:鳩、返してやってくださらない?そんなわけだから。(金を渡そうとする)
  京子:ええ。でも、これはいりません。(金を受け取らない)
  秋山:それはいけないわ。
  京子:いりません
  秋山:取っておきなさい
  京子:涙出てきちゃった。お話聞いてかわいそうで。それに先生、お話上手なんだ
    もん。(テーブルの上のハンカチを取り涙を拭く)
  秋山:それ、あたしのハンケチよ。あげますわ。まだきれいだから。
  京子:ありがと。
  秋山:あなた、高校?
  京子:2年。
  秋山:そ、無邪気なね。
  京子:子どもでしょ?
  秋山:ううん。でも、さっきびっくりしたわ、あの子にお金あげるって、お財
   布出したとき。
  京子:悪かったかしら。
  秋山:いいえ。でも好意が素直に受け取れない場合もあるわ。
  京子:あたし、いやだわ、そんなの。
  秋山:まあ。
  京子:なにかしてあげたいなあ、あの子に。
  秋山:あなた、ほんとに幸せに育ったのね。お父様は?
  京子:光洋電機って、テレビなんか作ってる会社に。ご存知
  秋山:ええ。いくら頼んでも卒業生採用してくれない会社。ごめんなさい。つい
    商売気出して。
  京子:ね、あたし父に言ってみましょうか、父に。重役してるんです


「お急ぎ」「~くださらない」と、敬語+普通体で始まった会話ですが、秋山はそのあとは
ほとんど普通体で、終助詞に「わ」「のね」「名詞+よ」「名詞+ね」(いずれも「だ」の
使用形で女性専用形式とされます)などがつく形です。丁寧体は1か所だけ自分のハンカ
チを「あげますわ」というところだけ。「とっておきなさい」という命令的な言い方もあ
り、自分の教え子の友だちであるということによる親近感はあったのかもしれませんが、初
対面の相手へのこのような普通体基調は、秋山の文体選択の基準に相手との年齢の上下があ
ることは確かだと思われます。
とはいえ、同じ年下でも京子に対する場合と正夫に対する場合では少しことばが違います。
京子に対しては「あなた」、正夫に対して「君」と呼びかけ、京子に対しては、正夫には使
ていた「かな」「な」などもまったく現れません。また、京子には「あげる」と言ってい
るのに対し、自分の生徒である正夫に関しては「返してやって」と「やる」を使っていま
す。フランクさの度合いというより敬語レベルそのものが京子に対するのと正夫に対するの
では少し違っているのは、やはり正夫が「生徒」という秋山にとっては特別の関係にあるだ
と考えられます。なお、「やる」が使われているのは、「あげる」が丁寧語化して「やる」
が廃れてしまった現在からみると感慨深い?ものでもあります。

さて、秋山に対する京子のことばも見てみましょう。
最初にお金を渡されて「いりません」と2回繰り返すところと、最後の発話だけが丁寧体
で、あとはすべて普通体で返しています。「~ちゃった」「~だもん」「~たいなあ」と
うような自分の心の動きをそのまま表すような言い方は、秋山にも正夫にもない、自由奔放
な京子の心の動きーそれを生のまま出せるという意味では幼い感じもするような―がれて
いるようです。ただ、常にそれだけかというと、そうでもなく、もう一つの特徴としては、
終助詞は基本的に女性専用形式と言われた「わ」や「かしら」などが使われていますし、場
面の最後、父の会社に話が及ぶと、「ご存知」と、秋山先生もよく使う敬語+普通体が現
れ、また丁寧体にシフトチェンジします。これは話題によって、京子がおとなの女性らし
い、丁寧な話し方もする―できるということを表していると言ってよいでしょう。
なお、この時代に「テレビなんかを作っている会社」というのは、現代の感覚よりは相当
先端的な新しい技術を持っている企業だっただろうと考えられます。京子はそういう会社の
重役令嬢ということになります。


京子のことばー若い女性のことばとして

3~7の正夫との会話、22の秋山との会話もそうだったように、この映画の中で、京子は
とんどだれに対しても普通体で話しています。そして22とおなじく、3~7でも使われてい
る終助詞は「わよ」「わね」「のよ」「(どうして)よ」などです。4に1か所だけ「おか
しいな」と正夫の遠慮を笑う場面がありましたが、これはどちらかというと自分の感慨がポ
ロリと出たという場面と言っていいかもしれません。
他に京子が話している相手は、彼女の家族です。


23.京子:はい。(鳩を土産に渡す)
  弟(病床にいる):もっとましなお土産くれよ。おねえさん。せっかく来るのに。
  京子:ありゃしないわよ。あんたみたいなわがまま坊主の気に入るようなものな
    んて。(中略)鳩、売ってた子、よっちゃんと一緒くらいだった。お金がい
    るんだって。かわいそうだ。きっとかわいがってたの売ったんだ


24. 勇次:まあ、そういう子に興味を持つのはいいけれど、あまり深入りしない方が
    いいだろうな。
    京子:どうして
   勇次:にいさんな、お前にはまだ、あんまり世の中の悲惨なことや醜いことは見せ
    たくないんだ。貧しい人ってのはね、この世の中に一人じゃなくてたくさんいる
    んだ。ま、お前がおとなになれば、いやでもぶつからなくちゃならないことだか
    らな。
   京子:じゃ、にいさん、そういう人たちのこといつも考えてんの?
   勇次:うん。考えてるよ。
   京子:ほんとかしら。にいさんね、自分がかわいがっている鳩売らなきゃ夕ご飯も
    食べられない子がいんのよ

25.京子:ね、パパ、なんとかなんない?
   父:ん、もう決まったんだからな。
   京子:ね、パパ、京子もお母さんがいなくて片親だからひねくれたいやな子?
   父:そんなことはないよ。いい子だよ。
   京子:ね、いれてあげて。お願い。
 


23で秋山に「ほんとに幸せに育ったのね」と評された京子ですが、先端企業の重役令嬢と
はいえ、母を亡くし、長患い中の弟の見舞いもたびたびしているということで、案外苦労
人の側面ももっています。ただそれに負けない自由奔放な意思をもって、気の毒と思った
相手にはいささか無遠慮とも無思慮ともいえるような好意をまっすぐに示すというのが、
京子です。戦前・戦中それまでの日本社会にはあまりいなかったような新しいタイプの女
といってもいいかもしれません。
そういう女性として少し年上の初対面の相手にも、街角で知り合った少し年下の少年にも
また、父や兄にも対等な相手に話すような普通体で話している京子ですが、彼女も文末形
式は女性専用形式中心であることが注目されます。これは、現代の若い女性のことばとは
明らかに違うところです。  

『何者』(2016三浦大輔監督)は5人の大学生の就職活動を描いた作品です。5人は初対面
ではちょっと丁寧体であいさつをしたりしますが、その後すぐにいわゆる「ため口」で話
すような関係になります。中の2人女子学生は映画の中で、「わ」「のよ」など女性専用と
言われる終助詞を一度も使いません。もちろん男性も、ですが、面白いのは終助詞「わ」
が女性が使うとされる場合とは違い、下降調のイントネーションで男性だけに使われてい
ること、女性専用形式は中の男性が「あたしたちうまくいくと思うのよ」と女性のまねを
して冗談っぽく同性の友人に話しかける一言だけです。
以下はこの映画の中で5人(理香・瑞月=女性 光太郎・拓人・隆良=男性)が話している
場面から。


  26.光太郎:なあ、理香ちゃんはさ、どんな企業受けるつもりなの?
    理香:ウーン、やっぱり語学力を生かせるところに行きたいかな。
    光太郎:ああ、そうだよね。
    理香:入社したら即戦力でバリバリ働きたいし。あたし、忙しいのとか結構好き
     なタイプだから。
    光太郎:うわー、へ、すげーな。おれ、いきなり即戦力とか、なれる自信
      えわ
    瑞月:理香、留学中も向うで人脈広げようと、ほんと活動的だったもんね。
    光太郎:へえ。
    理香:留学中は、とにかく人脈広げたくて、いろんなことしてたな。日本でもい
     ろいろやってきたけど、それが一番楽しかったからね。
    拓人:じゃあ、あれ、大企業志向ではない感じ
    理香:会社の理念と自分の考えが合っていることのほうが大事かな。だからそれ
     を探るためにも今はOB訪問とかいっぱいするつもり
    拓人:あー、なるほどね。
    瑞月:あたしはやっぱり会社の知名度気にしちゃうかも。だって何があるかわ
     かんないし、安定を求めちゃうかな。
    隆良:でも、それってさ、自分ひとりじゃ生きていけない道を選んでるってこと
     じゃないの? 
    瑞月:え?どういうこと?
    隆良:大企業って研修が3ケ月だったり、半年だったりするわけでしょ。その間
      に会社がつぶれたらどうすんの?
    瑞月:ああ。



この場面の女性と男性のことばにもやはり微妙な差はあります。自称詞は、女性は「あ
し」、男性は「おれ」ですし、「すげー」とか「ねえ」のような言い方をするのは太郎だ
け、「~だ」という言い切りは拓人だけ、また女性には「かな」と断定しない言い方が目立
つようでもあります。でも「かしら」を含め女性専用と言われる終助詞は、先にあげた光太
郎の下降調の「わ」を除いては1例もでてきません。自称詞を隠しいくつかの特徴を隠せば、
話者を替えても、少なくとも文字化したものからは話者が男性であるか女性であるかを判断
するのは難しいのではないでしょうか。
同じ若い女性の普通体であっても、京子や秋山のことばと、『何者』の理香や瑞月のことば
ははあきらかに違っているのです。



正夫の母のことば


『愛と希望の街』のもう一人の女性、昭和の名お母さん女優と言われた望月優子扮する正夫
の母のことばはこんな感じです。正夫が就職試験に失敗した日、秋山は家庭訪問をして、そ
のことを母に伝えます。留守だった正夫が帰ってくると…

  27.母:正夫、お前落ちたんだって、お前が鳩を売ってただろ。それで落ちたんだ
  ってさ。
  (秋山に)弁護なんかしてくれなくたっていいんですよ。あたしの思ったとお
   りだ。いいんですよ。この子はあたしがちゃんと高校に入れますから
   ね。     
           ・・・・・・・・・・・・・
   母:ごめんよ。
   正夫:なんだい。
   母:わたしが、鳩売れなんて言わなきゃよかったのかね。お前があんなに母ちゃ
    んのこと思って就職しようとしてくれたのに。ほんとに悪くって。ごめんよ。


正夫の母は貧しいシングルマザーで、靴磨きを生業としています(街角での靴磨きとうの
も今はもう見なくなった仕事ですね)。病気がちで、苦しい生活の中、正夫にはんとかこ
の境遇を抜け出してほしいと高校への進学を強く望み、就職試験を受けることにも最後まで
反対していました。反対ではあったけれどまさか優秀な息子が試験に落ちるとは思ってもみ
なかった。しかも自分も加担していたと言ってもいい「鳩を売る」という、貧しさゆえの行
動が原因で。くやしさと後悔に満ちた母のことばです。
正夫に向かっては普通体、秋山に向かっては丁寧体基調で、自分の感慨が思わず出てきてし
まった「あたしの思ったとおりだ」というところだけが、吐き捨てるような普通体言い切り
になっています。このあたりの選択はこの映画や、ほかの映画の登場人物の選択と変わりま
せんが、すぐに気づくのはここでは終助詞「わ」も「かしら」も「のよ」も一切使われず、
「ごめんね」「ごめんなさい」ではなく「ごめんよ」、「かな」「かしら」のかわりに「か
え(い)」「かね」、「でしょ」のかわりに「だろ」などが使われている、いわば秋山や京
子のような「女性形式」ではなく、もっと中性的、あるいは男性形式と言ってもいいような
言い方も混じっていることです。先にあげた9,10の正夫との会話でも同じでした。このよ
うな違いが、秋山は学校教師、京子は重役令嬢の高校生(当時の高校進学率は今のように高
くはなかった)という中流以上の教養層、それに対して貧しい正夫の母は下層であるとして
階層的なことばの差だとされることがありますが、どうでしょうか。

実は、明治期の小説『浮雲』(二葉亭四迷)や『こころ』(夏目漱石)、また昭和になって
からの小説やラジオドラマ、また映画などでも、中流以上の勤め人の妻などで比較的高齢
といっても4,50代以上?)の女性が、特に年下の相手には「だよ」「だね(「わ」の不使
用)「かい?」「かね?」(「かしら」の不使用)を使っている例が散見されます。年上や
目上の相手に対しては正夫の母が秋山先生に対して使ったような丁寧体、ということで、若
い女性たちが「わ」「かしら」などを使っていたこの時代にも、そのようなことばを使わな
い女性たちが、中高年以上あるいは地方出身者(女性専用の「わ」「かしら」がないとか、
そもそもことばの男女差そのものが小さい方言はたくさんあります)を中心に厳然としてい
た、ということを示していると見るべきかもしれません。
ちなみに、正夫の隣人でほぼ同じくらいの年齢のいさ子という少女が映画には登場し
が、彼女のことばはこんな感じ…

28.いさ子:(銭湯の前で正夫に)あら、待ってた
  正夫:(妹、保江に)なんだ、洗ってもらってたのか。垢だらけだろ。
  いさ子:きれいだよねえ。さ、行こう
       ・・・・・・・・・・・
  正夫の友人:テレビ見に行かないか?
  いさ子:行かない
  正夫の友人:一緒に帰りてえんだってさ。親切ですねえ。
  いさ子:まあちゃんじゃないわよ。この子に

現代の若い女性も使うような「だよ」や「行こう」という勧誘形に合わせて、「わよ」
使っていて、正夫の母よりは京子の方により近い感じです。つまり貧しい隣人として階層
的には正夫たちと近いと考えらえるいさ子ですが、ことばの面では同じ階に属していた
としても、必ずしも同じようなことばを使うとは限らないということでしう。「テレビ
見に行かないか」というのは、この時代にまだテレビが、だれもが持っいるものではな
く、街頭テレビや、テレビを持っている家に行って見せてもらうものった、という若い
人には想像もつかなかった状況を示しています。

さて、まとめてみるとージェンダー規範と女性のことばの変化
約60年前のことばと比較して現在のことばはどう変わってきたでしょうか。
まず、敬語の使用が減少したというか、使われ方の質が変わってきたように思われま
す。秋山と勇次、秋山と京子の会話は特にフォーマルなものではなくても、尊敬語、謙
譲語などが現れます。特に秋山や京子のことばには尊敬・謙譲語の普通体言い切りも見
られ、親しい人への敬意表現が今とは少し違っていたと察せられます。
現代では特に謙譲語が使われることが減り、代わりに丁寧語・丁寧体によってすべての
敬意を表すという感じになってきました。
「いらっしゃる?」ではなく「行きますか?」「お急ぎ?」ではなく「お急ぎです
か?」「急いでますか?」「時間ありますか?」という感じでしょうか。
ただし、丁寧体による会話が行われる範囲は60年前の方が圧倒的に広いようです。恋
人どうしの会話、中学生から先生への敬語・丁寧体などは現在ではほとんど聞くことは
できない?ようです。
次に、特に若い女性では、特に終助詞の女性専用形式使用がほとんどなくなり、ことば
が中性化したというのも、この60年間の日本語の大きな変化だと言えるでしょう。

実は、女性のことばの変化には「ジェンダー規範」というものが大きくかかわっている
と言われます。最後にそのあたりを少し考えてみましょう。
「ジェンダー規範」というのは「女性(男性)ならばこうあらねばならない」というよ
うな考え方のことです。「普通」の男性のことばに対して女性はこうしゃべるべきだと
いう特別なことばがある、という意味で日本語の女性のことばはジェンダー規範だとい
うことがよく言われます。『愛と希望の街』の女性たちも(あるいは男性も)拘束され
ていたジェンダー規範とはおおむね次のようなものです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

① ぞんざいなことばは男性のもので、女性は丁寧なことばをつかわなければ
 ならない。

②女性と男性には異なる言語形式がある。(女性/男性)
  文末形式・・なの のよ だわ かしら でしょ/
         だよ だぞ だね かな だろ
  人称詞・・あたし わたし / ぼく おれ
        あなた / きみ おまえ
  感動詞・・あら まあ / やあ こら
  敬語・・女性は敬意度の高い敬語形式・敬語普通体の使用をすべき

③女性は直接性、断定性を避け婉曲に言うのがよい。 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このような規範は明治期に成立したと言われます。もともと江戸期の花柳界で使われ
とばが、明治の元勲と結婚した芸者などの階層移動にともなって、一般に広まり、さらに
明治期に新たに出現した女学生という存在の話す、いわば若者ことば・流行語としての女
学生ことばに影響して世間に広まりました。いわゆる「てよだわ言葉」と言れるような
ことばです。これらは最初、はすっぱな若者の品のない新語として批判を受けることもあ
りましたが、なんといっても女学生は明治のニュー・ブランド、あこがれの存在でもあ
り、やがて成長して良妻賢母として社会の一つの大きな塊となったわけですから、彼女た
ちのことばは女性がしゃべる望ましいことばの典型として、つまりジェンダー規範として
広まっていったのだと考えらえます。そしてやがて、日本語の一つの「伝統」として考え
らえるようになり、戦争時代にも、「やまとなでしこ」の素晴らしい日本文化として定着
します。
戦後になり民主主義が標榜される社会では、男女のことばは差がなく同じようになるべ
という言説がなかったわけではありませんが、むしろことばの持つ「やさしさ」やよきし
つけの象徴としての位置づけ、また民主社会といえども男女の役割には違いがあり、その
自然の象徴であるというような考え方によって、ジェンダー規範は生き残り、さらに強化
されていきました。
秋山や、京子のしゃべる日本語はまさにこの時代の考え方をバックボーンとした、「新
い時代の女性のことば」ということになるのでしょう。
しかし秋山が勇次に抵抗するのに「ですもの」という「甘えた語調」になってしまうよ
に、丁寧で婉曲で、語調に甘さややさしさを含むような文末形式などの語彙によって語ら
れなければならないということは、「女性ははっきりものをいうべきではない(はっきり
言うのははしたない)」という規範となり、同時にそのことによって、「女性は議論がで
きない、理性的ではない」というような批判にもつながるというダブル・バインドとして
も働きました。
その後の日本社会の流れ、女性も一人前に社会に出て働き、ものをいうという状況の中
は、婉曲な物言いや相手をことさらに、必要以上に立ててことばを選ぶというようなこと
はやっていられないということになります。女性専用と言われる終助詞の不使用、敬語の
簡易化などによることばの中性化は、自分をまっすぐに率直に表現できることばを、この
60年の女性が模索し続けてきた結果だと言えるでしょう。

男女のことばの差がなくなったり、敬語が簡素化して丁寧語に一本化していくような傾
はいわば、ことばがシンプルになっていくということです。シンプルになったということ
は余計な飾りや額縁をつけずにはっきりと物を言うことができるようになったということ
でもありましょう。ただ、これに関しては日本人の中には抵抗感もあるようで、はっきり
言うことが責任を負うことになり、自分と相手の関係が傷つくのを恐れるという心象もあ
るようです。それゆえ、現代の日本語には様々な婉曲的な表現があふれるようになったと
いう気もします。

日本語の使い手として、ことばの変化や再生産の担い手であるという自覚をもって、ど
なふうにことばを変えていくのがいいのかを考え続けていきたいものです。

【参考資料】
  
  山口秋穂・秋本守英編(2001)『日本語文法大辞典』明治書院
  益岡隆志・田窪行則(2011) 基礎日本語文法―改訂版― くろしお出版
  小林美恵子(2019)「映画『何者』にみる若者ことばの「中性化」」『こと
   ば』40号    pp.106-123    現代日本語研究会 























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